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 サッカーのある風景 03/06/13 (金) <前へ次へindexへ>

 まるでタイムマシン。行き先は30年前だ。


 文/貞永晃二
 長居スタジアムでジーコ・ジャパンがアルゼンチンに完敗した夜、久しぶりに会った高校時代のチームメートK君と思い出話に花を咲かせることができた。
 一通り、この日の試合について話し合った(正確にはぼやき合った)あと、トルシエの方が良かっただの、まだ個人の自由にゆだねるほど日本サッカーは成熟していないだの・・・・・。二人ともアルゼンチンというサッカー強国との埋めがたい「差」にすこしげんなりしていたのだ。



 話題は変わり、やがて昔話に入って行く。タイムマシンの行き先はなんと30年前だ。昔話といっても、いろいろである。ナマで見た試合。テレビで見た試合。自分たちのサッカー部の話。

 初めて見たワールドカップは二人とも70年メキシコ大会。もちろんあの『ダイヤモンド・サッカー(関西ではスポンサーがM社ではないのでワールド・サッカーというタイトルだった)』。K君が言う。「ブラジルのメンバーを全員言えるで。GKはえーと、下手な・・・」すかさず私が「フェリックス!、カルロス・アルベルト、ピアザ、ブリト、エベラルド」友人が続ける「クロドアウド、リベリーノ、ジェルソン、ジャイルジーニョ、ペレ、トスタン!」得意げな顔の友人。私は内心「K君のあげた攻撃陣は簡単や、DF4人覚えている俺のほうがすごいぞ、ぶつぶつ」などと思っていると、K君、今度は74年のオランダのメンバーを並べにかかる。しかしまたもやゴールキーパーが難問。二人とも思い出せない。私は「GKは実家がタバコ屋」などと当時の金子勝彦アナの話だか、月刊サッカー・マガジンの記事だかを持ち出す。しかしなぜか名前は思い出せず、哀れなもみ上げがチャームポイントだったGKは後回しに飛ばされる。当時、GKはやはり人気がない、というかどうでもいいというか。

 いよいよ絶好調のK君「シュールビール、レイスベルヘン」私が「中国代表の監督、ハーン」するとK君「ハーンは中盤やろ」私「ハーンはリベロ。中盤をやったんは78年や。」納得したのかしていないのかK君は続ける。「クロル、ニースケンス、ファン・ハネヘン」私が「浦和のコーチ、ヤンセン」残りはK君が「レップ、クライフ、レンセンブリンク」二人とも大満足だ。しかし、思い出した。「キーパーがまだや!」K君がどうやら思い出したようだ。「ヨングブルートや」私が「そうや、TVではヤン・ヨングロードって言ってた。」次は74年の西ドイツ・・・・・。



 二人とも、古い大会のメンバーを言えるのに、恥ずかしながら昨年のブラジルの優勝メンバーを言えなかったりする。あの頃ダイヤモンド・サッカーは45分番組で前半・後半が2週に分けて放送されていた。放送開始10分前には、お風呂も済ませてパジャマでテレビの前に陣取る。番組が例の音楽で始まると、その集中力はすぐさまマキシマムに達する。

 70年大会の放送では、西ドイツのCF(コマーシャル・フィルムじゃなくセンターフォワード。最近あまり耳にしなくなったポジション名だ。)ゲルト・ミュラー(文字にするとミュラーなのに、私たちは何故かミューラーと発音した。また彼の姓のスペルの中のUの上に点が二つ=ウムラウトを見てドイツ語は面白い文字を使うんだなと感心したものだ)の得点シーンの連続で始まる。10ゴールで大会得点王となったミュラーのDer Bomber=爆撃機という異名は、第2次世界大戦を引き起こした国としてはふさわしくない気がしたが、まあサッカーの話だからこそ許されたのだろう。そのミュラーは1次リーグ3試合で2度のハット・トリックを含め7点。準々決勝の前回大会の決勝の再現となったイングランド戦で延長戦の決勝ゴール。歴史に残るアステカの死闘、延長戦で5点も入ったイタリア戦で2点と、5試合連続ゴールというすさまじさだったのだ。

 話を番組に戻すと、テーマ音楽のバックに映し出される冒頭の得点シーンの最後がイングランド戦の3点目だ。右サイドを交替出場(この大会から選手交替が許された)のウイング、グラボウスキーが深い切り返しで突破しクロス(当時はセンタリングと言った)を上げると、ファーポストでレール(1FCケルンで奥寺以前の左ウイング)がヘッドで競り勝って折り返す。するとゴールエリアの中で何故かフリーのミュラーが渾身の右足ボレーで叩き込むのだ。このシーンで私はミュラーが大好きになった。下敷きに写真シール(輸入品で通販で手に入れたもの)を貼って、油性マジックで彼の背番号13を書き込んだりしていたのだ。ああ純真という言葉がぴったりだったあの頃。大学受験では外国語大学のドイツ語学科に願書を出したりした私だ。「外交官になって、ドイツに赴任して・・・」などと考えたこともあったのだ。2002world編集部のNさん、私はかつては西ドイツファンだったんですよ。

 その日の試合放送が岡野・金子コンビの挨拶で始まると、目はブラウン管にくぎづけ。「どんなプレーも見逃さないぞ」という気持ちなのだ。70年代前半という当時はビデオが出始めで、まだまだ普及していない時代。だからこそ一試合一試合を大切に目に、頭に刻み込んだものだ。
 わずか一回見ただけの試合の内容を事細かに覚えていたりするのだ。それが、昨今はサッカー番組飽和状態。世界中の選手、チームを見ることができる。それも生中継でだ。ところが中継を見ながら眠りに落ちてしまう贅沢な身分に成り下がってしまっている自分。



 K君は今でもクライフが最高だよという。ワシントン・ディプロマッツのクライフが神戸中央球技場(今のウイング・スタジアムの場所にあったサッカー場)でのヤンマー(?)戦でゴールラインまで切り込んでアウトサイドキックでクロスを上げたのが印象的だったという。私は彼を「そうかナマのクライフを見たのか、うらやましい。」と少し妬んでしまう。しかしあの有名なクライフ・ターンをK君は「クライフがやる前に俺はすでにやっていた」などと自慢げに言うので、私はつい「お前はやってた、俺は覚えてる」などと白々しく持ち上げてやったりする。
 
 神戸中央といえば、Jリーグがまだ生まれる前に大学の総理大臣杯をよく見に行ったと話す私。試合を終えた選手がスタンドに上がって来て観戦したりするのだ。清水商時代から有名だった左足はその日も素晴らしいパスの切れ味を見せていた。その選手が隣に座って見ていた。まさか、彼が日本をワールドカップへ連れて行ってくれるとはとても想像できなかった時代。国立で、蚕室(チャムシル)で背番号10の彼を応援することになる不思議を今、思う。名波、君に話しかければよかったなと少し後悔しているよ。



 いつの間にか、時計の針は12時近くになっていた。明日は月曜日、話は尽きないがお開きにしましょう。自宅の前まで寄ってくれたK君にクライフのビデオを貸す。K君は夜中にビデオを見ながら大声を出してしまって、奥さんやお子さんに叱られないかなと心配しながら、床についた。ああ、やっぱりサッカーは素晴らしい。このスポーツにめぐり合えた喜びをかみしめながら思った。K君、また近いうちに話そうね。
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