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 福岡通信 03/01/24 (金) <前へ次へindexへ>

 女子サッカーを考える


 文/中倉一志
 1月12日から「全日本女子サッカー選手権大会」が開催されている。今年で24回目を迎えるこの大会には、L・リーグ所属の11チームと、全国9ブロック代表の10チーム(関東のみ2チーム)が参加。試合はトーナメント方式で行われ、雪の影響を避けるため西日本を中心に各地で準々決勝まで開催した後、会場を東京へ移して準決勝(西が丘)・決勝(国立競技場)が行われる。1回戦から準々決勝までこの大会を取材してきたが、そんなわけで、今週は女子サッカーの話題をお届けしたいと思う。

 アメリカの文献によれば、1907年にBryn Mawr Collegeで女子のサッカーの試合が行われており、また、同年にはBrown Universityに女子サッカーチームが結成されたことが記されているように、女子サッカーの起源は意外に古い。ちなみに、イングランド・フットボール協会(The FA)が設立されたのが1868年、アーチフォード・ルシアス・ダグラス少佐と33人の部下たちが日本にサッカーを伝播したのが1873年、大日本蹴球協会が設立されたのが1921年のことだった。

 しかし、普及という観点から見ると、その歴史は遅々としたもので、第1回の女子サッカー・ヨーロッパ選手権が行われるまでには、それから50年の時間が必要とされた。また、世界各国で本格的な普及が始まったのは1970年代に入ってからのことで、圧倒的な実力で世界の女子サッカー界に君臨するアメリカに全米女子サッカー連盟が設立されたのは1977年のこと。日本では、1967年に神戸女学院で行われた試合が女子サッカーでは最も古い記録だと思われるが、やはり普及が始まったのは1970年代に入ってからだった。

 日本サッカー協会に女子選手の加盟登録が認められたのは1979年。登録チーム52、選手数919人で日本の女子サッカーは本格的に産声を上げた。当時、既に関東、関西、清水等で女子サッカーが独自にリーグ戦を開催していたが、そうした関係者の熱い思いが女子選手の加盟登録の認可につながった。そして、翌80年には第1回全日本女子サッカー選手権大会が(8人制、試合時間20分ハーフ、4号球使用)開催された。参加チームは8チーム。2日間に渡るトーナメント戦で行われ、初代チャンピオンには、F.C.ジンナンが輝いた。



 しかし、スタート直後は手探りのような状況だった。日本サッカー協会に登録が認められるようになったとはいえ、まだスポーツとしての認知度がないに等しい時期。何もないところからのスタートだった。しかし、そんな状況を、初代女子サッカー連盟の理事長を勤めた森健児氏を中心に、関係者たちが手弁当で女子サッカーを支え続けた。そしてとうとう、1989年には6チームの参加による日本女子サッカーリーグの設立にこぎつけた。

 その後、日本の女子サッカーは、この日本女子サッカーリーグを中心に成長を続ける。第3回(1991年)からは参加チームが10チームへと拡大、第4回(1992年)からは、リンダ・メダレン(ノルウェー)、ブランディ・チャスティン(アメリカ)、シャーメイン・フーバー(カナダ)らをはじめ、世界を代表する選手や、各国代表選手が次々と日本にやってきた。そして第6回(1994年)からはL・リーグの愛称を用いるようになり、この発展に伴い、1995年には登録チーム数は1217を数えるまでになった。

 成長を続ける女子サッカーは国際舞台でも活躍を見せた。日本の最初の国際試合は1981年6月7日に行われた第4回アジア女子選手権グループリーグの第1戦、チャイニーズ・タイペイとの試合だった。残念ながら、この試合は0−1で敗れ、続くタイとの試合も0−2と落としたが、グループリーグ最終戦でインドネシアを1−0で下し記念すべき国際試合初勝利を挙げる。時は6月13日、日本女子代表初ゴールを記録したのは半田悦子だった。

 その5年後、第6回(1986年)アジア女子選手権で2位に入賞してアジアトップクラスの仲間入りを果たすと、以後、アジアでは常に上位をキープするようになる。そして、1991年には第1回女子世界選手権に出場を果たした。この大会ではグループリーグで1勝もあげることが出来なかったが、第2回(1995年)大会ではベスト8に進出、アトランタ五輪への出場権も獲得した。さらに、第3回(1999年)大会にも出場を果たしている。



 順調に階段を登ってきた日本の女子サッカー。しかし、現在は過去の発展と反して非常に厳しい現実にさらされている。それまで女子サッカーを支えていた企業が、バブル経済崩壊の影響からチーム運営から手を引いたからだ。多くのチームがL・リーグから撤退、1999年からは外国籍選手が姿を消した。クラブチームとして残ったチームも資金不足は深刻だ。そのため、2000年度から全国リーグは廃止され、移動費を抑えるために東西に分かれてリーグ戦を実施した後、上位、下位グループに分かれてリーグ戦を行う方式に改められた。

 そんな状況が影響しているのか、1995年に1217を数えた登録チームは2001年には967にまで減少した。さらに、小学生年代でプレーしている女子の多くが、中学校に上がったときの受け皿がないため他のスポーツへ移ってしまい、若年層のプレーヤーの絶対数が不足しているという問題も女子サッカーに大きな影を落としている。そんな中で、女子サッカー関係者は、初期の頃がそうであったように手弁当で、そして情熱だけで女子サッカーを支え続けている。

 チームの存続と女子サッカーの普及、そして選手の強化。練習環境も資金面でも恵まれない中にあって、女子サッカー関係者は1人で何役もこなしている。支えているのは情熱と使命感だけだ。それは選手も同じこと。厳しい環境の中ではサッカーが好きだという強い気持ちだけが彼女たちの支えになっている。現在は、行政の支援を受けて立ち上がった「岡山湯郷Belle」や、同じくさいたま市の支援を受けている「さいたまレイナス」のように、地域で支えるクラブチーム作りを模索するチームも現れたが、是非、クラブ作りモデルとなるよう頑張って欲しいものだ。

 また、日本サッカー協会も女子サッカーが直面している問題の解決に本腰を入れ始めた。アジアではトップレベルにあるとはいえ、世界との差はまだまだ大きい。指導者の育成、練習環境の整備、資金面でのバックアップ等々、やらなければならないことは山ほどあるが、日本サッカー協会と女子サッカー関係者、そして各地区のサッカー協会との連携なくしては問題解決の道はない。女子サッカーの強化を公言している川淵キャプテンに、Jリーグ創設のときのような強烈なリーダーシップを発揮してくれることを期待したい。



 情熱と使命感、そしてサッカーが好きだという気持ちを武器に、試行錯誤をしながら生き残りと普及を目指す女子サッカー関係者たち。ところが、それに反してメディアの対応は冷たい。私が取材に伺った1回戦の大分会場にやってきた記者は、私と地元新聞社の2人だけ。2回戦では私のほかに、もう1人が記者席に座っていたが、目的は取材ではなかったようだ。そして準々決勝が行われた広島スタジアムの記者席に座っていたのは私1人だった。

 そういう私も偉そうに言える分際ではない。私が女子サッカーをスタジアムで初めて観たのは1996年5月26日、国立競技場でデンマークとの間で行われた五輪壮行試合だが、それとて、その試合後にキリンカップの日本代表vs.ユーゴスラビア代表の試合が予定されていたから観ただけのこと。その後はL・リーグの試合を観たことはないし、3年前から取材をしているといっても、それは全日本女子選手権だけ。その姿勢は他のメディアと五十歩百歩であることに変わりはない。

 しかし、それでも思うのだ。いくらなんでも冷たすぎないかと。確かに、サッカーには日本代表から、五輪代表、ユース代表、さらには海外リーグ、Jリーグ等々、取材しきれないほどのソースがある。また、各メディアにはそれぞれに特徴があり、全てのメディアが女子サッカーを扱うことが不可能なことも分かっている。しかし、この大会は全日本選手権。日本で一番権威があってしかるべき大会の取材体制としてはいかがなものか。これでは、メディアは女子サッカーに全く興味がないと言っているようなものだ。

 観るスポーツとして捉えた場合、女子サッカーは一部のチームを除いては、技術や戦術の面では観客を満足させることは難しいかもしれない。競技としての普及度が低い現状にあっては、読者も女子サッカーに関する記事を欲していないのかも知れない。しかし、売れるものだけを扱うのがメディアではないはずだ。情熱を持って活動している人たちを応援することだってメディアの大切な仕事のひとつだろう。まして、サッカーに関わる仕事をやっているのなら当然のことだ。

 明日の朝一番の飛行機で東京へ向かおうと思う。行き先はもちろん西が丘サッカー場、そして国立霞ヶ丘競技場だ。1月26日、24代目の女子サッカーチャンピオンチームが決まる。



※このレポートは「fantasista online magazine 2002CLUB」に掲載されたものです。
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