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 福岡通信 03/05/02 (金) <前へ次へindexへ>

 謙虚・尊重・自信


 文/中倉一志
 人には誰にでも「モットー」とか、「スタンス」というものがある。もっと格好良く言えば「座右の銘」ということになるのだろうが、それぞれに自分なりの判断基準や価値基準を持っているものだ。ちなみに私の座右の銘(?)は、「お天道様が見ている」というもの。どんな時でも、自分のやっていることをお天道様がみていて、いいことも、わるいことも、やったことの全ては必ず結果として自分に返ってくるという意味だ。良いも、悪いも、人生は全て普段の行いで決まる。

 もうひとつ私の頭から離れない言葉がある。「謙虚に、そして相手を尊重する。しかし、自信を持って戦う」。2000−2001の2シーズンに渡ってアビスパ福岡の監督を務めたピッコリ元監督が好んで使った言葉だ。激しく熱い性格で知られるピッコリ氏だが、その言葉を地で行くような人だった。強気な姿勢と激しい口調は、時として相手に反論を許さない雰囲気を作った。しかし、真剣に反論する者には、どんな時でも聞く耳を持っていた。

 福岡が波に乗れない現状の中で誤解を招かないために書いておくが、私は何もピッコリ氏を回顧しようとしているわけではない。監督論を振りかざすつもりもない。ただ、最近、彼の言葉が頭から離れない。今年になってから新しい立場で活動を続けている私にとって、思い通りにことが進むときもあれば、思いがけずにいい話をいただくこともある。その反面、予想もしなかった苦境に立たされることもある。そんな時、この言葉が頭に浮かんで離れない。



 人は自分を客観的に見つめることは難しい。自分に自信を持って有頂天になっているときならなおさらだ。繰り返すミスは「たまたま」で片付け、たまに上手くいくと「どうだ、これが俺の実力だ」とばかりに鼻高々になる。こうした誤った判断が成功をもたらすことがないことは当然のこと。しかし、それに気づかず、あり余る才能を持った選手たちが消えてしまった事例をいくつも見てきた。自分だけに許された才能をつぶすこと。それは罪に等しい。

 選手だけではない。恥ずかしながら私にも似たような経験はある。Jリーグ以外にも様々な場所に取材に伺うが、必ずしも万全の体制が敷かれているわけではない。中には、担当者と事前の打ち合わせした内容が取材対象者に伝わっていないこともある。そんな場面に出くわしたとき、「何だよ、失礼な担当者だな」と思ったことがある。しかし、一生懸命にサッカーのことを語ってくれる取材対象者に気づかされた。自分は何者なんだと。

 初めて取材をさせてもらった頃、担当者との打ち合わせが違っていようが、取材対象者が失礼だろうが何も気にならなかった。当たり前だ。素人同然だった私のためにわざわざ時間をとってくれている。多くのファンが直接聞けない話を聞かせてもらっている。自分にそういう機会が与えられたことだけで十分だった。話が違おうが、失礼だろうが、そもそもそんな機会を与えられる人間は圧倒的に少ない。不満を感じる理由などどこにもない。

 また、一流と呼ばれる選手たちは総じて謙虚だ。無口で取材陣泣かせの選手もいる。気の利いた受け応えが出来ない選手もいる。しかし謙虚であることは変わらない。辛らつなことを言われても冷静に対応し、周りが持ち上げても決して調子に乗らない。中にはメディアが取材態度の悪さを叩くこともあるが、その原因を作っているのはメディア側であることが多い。私よりも20年近くも若い選手たちに謙虚さの大切さを教えられることは多い。



 戦いの中で相手を尊重することなど出来るのか。そう考える人もいるかもしれない。しかし、相手を尊重できない人間が真の勝者になることなどあり得ない。選手たちが多くのものをかけてサッカーに取り組むように、サポーターが全てをかけて声援を送るように、相手チームの選手もサポーターも同じだということに気づかなければならない。敵と味方という立場の違いはあっても、同じサッカーを愛するもの同士。ボールにかける思いに違いはない。

 相手のプレーを邪魔すること。気に入らないという理由だけでブーイングすること。そんなことをしても何にもならない。そうした行為は、やがては自分たちに返ってくる。一時的に有利になることがあっても、長い目で見ればマイナスにしかならない。そういう時間があるのなら、その時間を味方を奮い立たせるために使ったほうがよっぽど有効だ。ただし、相手が味方を尊重しなかったら、その時は遠慮なくブーイングを浴びせればいい。

 相手に気を使うこと。必要以上にフェアプレーにこだわること(そもそも、フェアプレーの定義さえあいまいだが)。それが相手を尊重することではない。スポーツに限らず、相手が真剣であればあるほど、その熱意を理解すればするほど、対応する側も真剣に熱意を持って事に当たるはずだ。相手を尊重するとはそういうこと。相手を尊重するのであれば、こちらもそれ相当の覚悟でぶつからなければならない。それが出来ないうちは自分の力の全てを発揮は出来ない。

 敵と味方という表現がいけないのかもしれない。正確に言えば相手とこちら。ラインをはさんで立場が違うだけで、それは敵を意味しているのではない。あくまでも勝負を競っている相手に過ぎない。そんな相手の必死さや、勝負にかける情熱を理解することは、最終的には自分たちのアイデンティティに跳ね返ってくる。それは自分たちのチームへの愛着や帰属意識というものが何であるのかを気づかせてくれる。そういうチームは強い。



 謙虚でいること。そして相手を尊重すること。それは相手と自分たちの実力や勝負にかける情熱の差を客観的に把握することにつながる。当然のことながら、相手の強さが自分たちよりも上にあることもあるだろう。しかし、それは敗戦を意味するものではない。相手に勝つとは、相手よりも少しでも前に行くこと。それは、両者の間にある差を正確に計り、その差を埋める具体的な作業を行うことでもある。差があること自体は問題ではない。

 また、自分たちのほうが実力が上の場合もあるだろう。しかし、同じ意味で、それは勝利を意味するものではない。その差を埋めようと手を打ってくる相手に対し、差を埋めさせない具体的な作業を準備しなければ、両者の間にある差は簡単に埋まってしまう。特にプロの世界では互いの実力など紙一重。ほんの僅かな油断で追いつき、追いかれてしまうものだ。油断することなく、出来ることをひとつずつ確実に実行すること。それが勝利につながる。

 こうした作業を行うために必要なものが自信だ。それは勝てると確信することではなく、自分たちが積み重ねてきたものを信じる力のことだ。相手との距離を計り、それを維持し、あるいは縮めるために積み重ねてきたもの。それを信じることが出来るか否かが、結果に大きく関わってくる。積み重ねてきたものが足りないと感じているのなら勝負になどなりはしない。信じて実行に移せないのなら、何のために積み重ねてきたのか分らなくなる。

 自信とは勝って身につけるものではない。これ以上ないと思えるだけの準備をしたものだけが身につけられるもの。だから敗れても自信はなくならない。敗れたという結果は相手との差があるということが明らかになっただけのこと。それならば、その差を埋めるだけのものを積み重ねればいい。これ以上ないというところまで自分を追い込めばいい。そして自信を持って戦いに望めばいい。お天道様は必ず見ている。結果は必ず返ってくる。



 さて福岡は、5日に博多の森で広島との対戦が控えている。ここまで負けなしの8勝1分でJ2の首位を走る広島は、はっきり言って強い。残念ながら福岡との間には、現時点では大きな差が存在するといわざるを得ない。かなり苦しい戦いを強いられることになるだろう。しかし、そんなことは覚悟の上。謙虚さと、相手を尊重する気持ちと、そして積み上げてきたものを信じられるだけの強さを持って博多の森に広島を迎え撃つこと、それが出来れば勝機もある。はてさて、どんな試合を見せてくれるだろうか。



※このレポートは「ONLINE MAGAZINE 2002CLUB」に掲載されたものです。
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