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 札幌からのメール 04/03/22 (月) <前へ次へindexへ>

 世界へ、挑め。


 文/笹田啓子
 U-23の試合をテレビで見ていた。
 本日のスタメンとして配置された名前の横に書かれているチーム名は、今年から「FC東京」であって、もう札幌の選手ではない。なのに、それでも今も「うちの子」と言いたくなる選手、それが今野だ。

 最初、最終予選に新しく召集された平山や闘莉王のようにマスコミを賑わせることはなかった。が、試合の中継が始まると、BS・地上波の何れも問わず、その日の解説者の口から「今野、いいですねぇ」という言葉が発せられるのを聞いた。そしてその回数が試合を重ねるごとに増えていった。うちの子、いや正確には「元」うちの子が可愛がられるのを聞くのは悪くない。むしろうれしい。そりゃ、一抹の寂しさはないではないけど。

 今野のプレーにミスがまったくないわけではない。むしろアウェイUAE戦では失点につながりかねない大きなミスもかました。でも、テレビ桟敷のサッカーファンの多くの心に残ったものは、そんなミス以上に画面が時折捉える鬼気迫る表情、衰えぬ運動量、そしてなによりも執拗にボールに喰らいつく姿だった、と思う。



 執拗に。
 それが解説者たちの、そして私達の心をたぶん動かしているのだ。
 そんな今野の姿は、代表の今だから見られるようになったものではなく、札幌にいた時代からあったものだった。

 といって、今野にとっての札幌での3年は決して順風満帆ではなかった。
 加入した2001年、4月に初先発でデビューを果たすも直後に骨折してユース代表を棒に振り、怪我が治って復帰して、徐々にチームでその才覚を現した頃、逆にチームの調子は下り坂に向かう。今野在籍のあいだで札幌の成績がよかったと言えたのは最初の1年だけで、主力として計算できる選手に成長してきた2002年にチームはJ2降格。チームの成績とは裏腹にコンスタントな活躍を見せた今野には、当然移籍話も沸いた。事実、当時五輪代表だった山瀬は浦和へ移籍した。しかし、今野は移籍せず札幌に残った。

 それなのに2003年は、彼にとってもチームにとっても、更に悪い一年となる。
 チームの屋台骨と期待されていたはずが、シーズン序盤3月の試合中の捻挫が長引き、復帰まで予想以上の時間がかかり、そのあいだにチームは崩壊の一途を辿った。今野本人も怪我が治って実戦に復帰しても、パフォーマンスはなかなか上げられないでいた。
 「あの状態の今ちゃんが、何故試合に出ているのかわからない」
 夏頃にはそんな声もサポーターの間からは少なからず漏れた。もうこんなチームでやりたくないんじゃないのか、やる気ないんじゃないの、そんな穿った見方をするサポーターも見受けられた。チームと選手、双方にとって泥の中であがく日々が続いた。



 そんな今野が、サポーターの溜飲を下げた試合があった。
 11月のホーム厚別での新潟戦。昇格間近の新潟、前回の新潟ホームでの対戦は1−5の大敗、その結果がジョアン・カルロス監督の辞任を呼んだ因縁試合で、いわば新潟にJ2残留の引導を渡された格好の札幌、渡した新潟、勢いの差は、試合の前からはっきりしていた。だから「新潟にどれだけこてんぱんにされるか」、どちらかといえば憂鬱な気持ちで迎えた試合を、しかし札幌のサポーターは、そこで今野の超人的な活躍を見ることになる。

 まさに縦横無尽。ボールを持ったらひたすらに前へ。簡単にはあきらめない。どこまでもしつこく喰らいつく。試合への、そしてなによりサッカーへの執拗さ。五輪代表の試合で見せていたのと、全く同じ類のプレーだ。

 この試合は結局引き分けに終わったのだけれど、私達札幌サポーターは今野という選手が年代の代表選手であるに相応しい人間であることをそこで確信し、と同時に、それを確信することで逆に今野との別れが近いことを、理解することにもなった。



 今野の札幌での最後の試合になるであろうと当時言われていた、11月16日のホーム最終戦を前にして、今野ファンの友人に横断幕の作成を依頼された。
 チームカラーに基づけない横断幕の図案を作ることの意味に一抹の寂しさと、しかしこれから先この横断幕の似合う選手に、きっとなるだろうという誇りを感じながら図面を引き始める。1×5mの10分の1寸の四角い白い枠をひいて中心に赤い円、その両脇に文字を打つ。

 「今野泰幸 世界に挑め!」
 ホーム最終戦で無事今野本人の目に届いたこの横断幕は、そののち依頼主の友人の、さらにそのまた知人の手を経てUAE・アルジャジーラスタジアムまで旅をし、日本ラウンドの各会場にも掲げられた。

 札幌サポの作った横断幕を背景に走る今野を思う。
 不意に、泥の沼に咲く花を思い出す。蓮の花だ。
 蓮の花みたいな選手、と言ったら今ちゃんは怒るだろうか。でも、札幌のサポーターにとって今の今野は、あの泥沼のような札幌の2年の間に咲いた花にほかならないのだ。泥の沼でも咲く花はあったのだ、と。



 五輪最終予選は厳しい戦いになった。苦しい場面がたくさんあった。押し込まれる場面もたくさんあった。打つ手がないように見える場面も少なくなかった。でもその逆境の場面でも、私は今野を信じられた。「札幌であれだけ苦しい中で戦えたんだから、今ちゃんなら絶対やれる。ここで逃げたりしない。諦めたりなんて絶対しない」。

 J2というリーグの、しかも昨年その下位に沈んだチームで、怪我があり、しょぼいプレーがあり、皆の不満を買い、でもそこから這い上がっていったこと、ワールドユースで活躍したこと、公式戦の最中に泣き出したことすらある「泣き虫今ちゃん」が最後にチームを泣かないで出ていったこと、札幌のサポーターはみんな見てた。だから、信じられた。絶対に今野は喰らいついてくれる、と。

 五輪予選の途中までは、そんなふうに私達札幌サポの知ってる範囲の今野だったけど、途中からは、私達も知らない今野になっていった。出場をかけた最後の試合のUAE戦では、解説もすっかり「今野祭り」状態で、試合に勝って五輪出場を決めて、山本監督の口からはMVPに今野という最高の褒め言葉もいただいて、ほんのわずかのあいだに私達の知っている「今ちゃん」は日本の今野に成長していってた。



 おめでとう、よくやったね今ちゃん!よく頑張ったね!
 …と思っても、そういえばもう札幌の試合ではそれを言ってあげることはできないんだ、と今更ながらに実感しまたちょっと寂しくなったけど、まあ仕方ない。「札幌の今ちゃん」のことを書けるのはきっとこれが最初で最後の機会だと思うから、エールの代わりにこの文章を送るよ。

 札幌サポが見続けた3年間の歴史のつづきを、ここから先の成長の歴史をFC東京、J1、そして代表という場所で出会う人達とともに「今野泰幸」という選手自身の力で切り開いていってほしい。あなたが頑張る限り、応援している人達の気持ちは、横断幕が札幌サポからFC東京サポの手を経て掲げられ続けたみたいにちゃんと続いていくはずだ。そういうことも全部力にして大きく伸びていけ。そして近い将来必ず、世界へ、挑め。
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