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 頑張れ!女子サッカー 05/04/21 (木) <前へ次へindexへ>

 なでしこ一期生、新たなる挑戦
 下小鶴綾の場合

 取材・文/西森彰
 2003年、後に「なでしこジャパン」と呼ばれることになる日本女子代表は、メキシコ女子代表とホーム&アウェー形式で行なわれたプレーオフを制し、4大会連続で女子ワールドカップ出場を果たした。劇的な出場権獲得もあいまって、アメリカで行なわれた本大会の3試合は、日本国内でも地上波で放映された。遠くアメリカの地で戦うジャパン・ブルーのユニフォーム。テレビで見ていた下小鶴綾にとってそれは別世界の出来事だった。

「もちろんテレビで見ていましたけれども、はっきり言って他人事みたいなところがありました。自分がそんなところに出ていくなんて想像もつかなかったですし」



 しかし、上田栄治・日本女子代表監督(当時)は、この女子ワールドカップ本大会で彼我の体力差を痛感し、3バックから4バックへシステムを切り替える。2月に行なった3週間の長期フィジカル合宿を経た後、ワールドカップメンバーの厚い壁に食い込み、新たに抜擢されたのは日テレ・ベレーザの永里優季と下小鶴のふたりだった。そして「高さとフィードの正確性」を買われた下小鶴は、キャプテンを務めていた大部からレギュラーの座を奪い取る。

「大部さんは、ずっと代表でやっている方というのも知っているし、その前のワールドカップでもずっと出ていた人ですし、その代わりを務めるのにプレッシャーが無かったといえば嘘になります。ずっと『私なんかで良いのかな』と思っていました」

 当時所属していたスペランツァF.C.高槻から、代表合宿に参加していたのは下小鶴だけ。慣れない代表合宿の中で、新たにコンビを組むことになった磯崎浩美ら同室の選手たちは、彼女がチームに溶け込めるようにフォローしてくれた。「自分がどうこうしたというよりも、周りの人に支えられたのが大きかった。『もう、やるしかない』という気になりました」。予選へ向けて、もう迷いは無かった。



 駒沢陸上競技場で行なわれたベトナム戦に続き、徹底したターンオーバーで臨んだタイ戦にも、登録人数(20名)の関係で、柳田美幸とふたりだけ、第1戦に続いて先発に名を連ねた。「『コクリツへ行ける!』って。国立へ行くのもやるのも、タイとの試合(予選グループ2試合目)が初めてだったんです」。この日、45分間、国立霞ヶ丘陸上競技場の雰囲気を味わった下小鶴は、2日後の北朝鮮女子代表戦も先発で臨んだ。

「福島の合宿から『打倒、北朝鮮!』ということでやってきて、チームとしては『できる』という手応えを感じていましたけれど、自分ができるかどうかは分からなかった。しかし、ああいう雰囲気の中で、たくさんの声援を受けながらプレーできたのは幸せでした。正直、負ける気がしなかったですね」

 3万人を超えるファンが送るひたむきな声援は、これまたひたむきにプレーする11人を奮い立たせた。前後半90分が終了した時、コクリツのオーロラビジョンには3対0のスコアが灯っていた。「(下小鶴を)使った理由は、試合をご覧になれば分かっていただけたと思います」。アジア最強とも言われていた北朝鮮を0に押さえ込んだ立役者のひとりが下小鶴であることは上田監督の言葉を待つまでもなかった。



 こうして掴んだアテネ五輪の出場権だったが、一人の女子大生の生活としては、大きな犠牲も伴っていた。大学4年生の春から夏にかけては就職活動期間の真っ盛り。その期間を下小鶴はアテネ五輪への挑戦によって費やした。7月、鶴見緑地競技場で話を聞いた時には、漠然とした将来への不安も垣間見せていた。

「就職活動は、全くできていないのが現状です。これからサッカーを続けていくことも含めていろいろ考えなければいけませんね。大学を卒業するのを機会に、環境を変えてみるのもひとつのやり方かもしれない。例えばTASAKIとか…。まあ、私が入りたいと言っても、相手あってのことですから。『いらん』と言われたらそれまでのことですけれどね(笑)」

 ふいに口を突いて出たTASAKIの名前だが、その時点では、それほど真剣に考えていたわけでもなかった。話が具体化してきたのは、昨年暮れに行なわれた全日本女子サッカー選手権の前後から。

 TASAKIの仲井昇監督は「彼女には『来て欲しい』とは伝えましたけれども、『いろいろなところから話を聞いてみたい』ということでしたので、ただ待つだけでした」と言う。下小鶴が最終的に選択したのは、一番初めに声をかけてくれたTASAKIだった。「L1でサッカーを続けられること」「就職先」のふたつの条件を満たしていたことが、決め手になった。



 想像していたとおり、チームを移ることでいろいろな変化が待っていた。これまでは恵まれた体に頼り、それほど強い負荷をかけるフィジカルトレーニングはやっていなかった。TASAKIに入ってからはチーム全体で行なうハードな走りこみや筋力トレーニングが課せられている。覚悟はしていたものの、その徹底振りに驚かされた。

 ポジションも変わった。これまでは代表で4バック、高槻でも4バックか3バックのセンターを担当し、カバーリングが重要な役目だった。TASAKIでは3バックの左として相手のFWと90分間マッチアップすることになる。「これまでと目線も変わりますし、やり方も変わる。1対1の場面が増えるあたり、不安もありますけれども、与えられた仕事をやるだけです」。これらの変化についても、下小鶴は前向きに取り組んでいる。

 奇しくも、代表でキャプテンの大部とレギュラーを入れ替わったように、TASAKIでも入団直前に、前キャプテンの川上直子が日テレ・ベレーザに移籍した。ポジションは違うが、またもや前キャプテンと入れ替わる形になった。「TASAKI−川上+下小鶴=]」がどのような解になるのか。ファンの大きな注目を集めている。

「自分が見ていたTASAKIはハワイさんのイメージが強かった。自分が入って新しいイメージのTASAKIを作っていきたいです」

 昨年までのTASAKIは激しいプレスでボールを奪い、縦に速くボールを持っていくサッカーを徹底していた。だが今年は、最終ラインでボールを回しながら、相手の穴を探る攻撃も身につけている。「他のチームに研究されているし、縦にスペースが無いのに急いでも仕方が無いし、あせらずゆっくりやっていこうとも言っています」(仲井監督)。しっかりとボールを動かせる下小鶴が加入した影響のひとつである。



「(オリンピックでゴールチャンスを逃した)あのあたりが、世界との差ですね。代表という自分を高める場に残るためにも、まずはクラブでリーグ優勝。最小失点で、それに自分が貢献して、TASAKIの優勝メンバーの一員になりたいです」と今年の目標を語った下小鶴。新たな挑戦を機会に、さらなる成長の姿を見せてくれるはずだ。
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