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 サポーター通信 05/12/12 (月) <前へ次へindexへ>

 ガンバ大阪 サポーター通信 〜至福の1週間


 レポート/gambanna
 最終節、残り数分の土壇場での逆転リーグ優勝となった。
 優勝が決まった瞬間、涙が頬を伝った。一緒に見ていたサポーターと抱き合って喜んだ。最後の数分での逆転優勝というドラマチック性が重なり、さらに涙が溢れた。でも、それ以上に大粒の涙を溢れさせたのは、宮本選手の涙でも西野監督の涙でもなかった。それは、何度もニュースで流された優勝決定の瞬間のシーンの中、ベンチで声を出して泣きながら西野監督やスタッフと抱き合う松山コーチの姿だった。

 1992年9月5日、最初に見たガンバ初公式試合のナビスコカップ第1節横浜マリノス戦。神戸ウィングの前身、神戸中央競技場へ礒貝目あてに出かけたその試合で、礒貝に代わって後半早々に登場したのが、この松山選手だった。この試合の自分の観戦記を見ると、松山のスピードが光っていた、と一行だけ書いてある。当時、ガンバの中では俊足を武器にした異色の選手だったので目についたのだろう。これが刷り込みとなったのか、それ以降スタンドから何度「まつやま〜」と叫んだことか。ガンバ元年から在籍していたこの松山選手がガンバを離れ指導者に、そしてコーチとして近年ガンバに復帰してのガンバ初優勝に、心底喜ぶ姿にもらい泣きしてしまった。

 何故こんなところに琴線があったのか・・・、やっぱり13年は長かったのかもしれない。

 Jリーグ元年のブームはさておき、ブームが去った後も、弱いガンバ見たさに試合の度にスタジアムへ通った記憶が蘇ってくる。弱いのに何がいいねん、と何度まわりから言われたことか。好きになったものは仕方がないと。閑古鳥が鳴いていた長かった低迷期から、今ではその内容で毎試合万博スタジアムを満員にするまでに至った成長プロセス、そしてリーグ優勝、感慨無量である。


 さて、今シーズンを振り返ると、中断再開後の13節以降の夏場の快進撃、とよく言われているが、そのカギは何だったか。前半戦伸び悩んだのは何故か・・・。前線最強トライアングルの3人は第1節から出場し、終盤までは怪我なく試合毎にさらにその連携を深めていった。

 しかし、開幕時からポジションを固定できなかった両サイドの仕上がり具合、両サイドに安定して配置できる選手が不在だったことが前半戦伸び悩んだ原因ではなかったか。右サイドの渡辺にしてもフルタイム出場できる選手ではなく、本来ボランチの橋本が右サイドで使われた。展開力ある橋本をサイドで使うのは本当にもったいないなかった。左サイドには今や家長がいるが、当初はまだハーフ出場も厳しい状態だった。昨年のオフシーズンに補強に動いていたポジションだろうが、うまくいかずシーズン突入に至ったのだろう。

 両サイドのやりくりが何とか軌道に乗り出したのは、家長がワールドユースで一回り成長して左サイドに戻り、試合で使えるようになってからだ。それがこの13節だった。この試合前半35分の選手交代で、ボランチに入っていたシジクレイに代わり渡辺が入り右サイドへ、それまで右サイドに入っていた橋本が本職のボランチのポジションへ入った。その後の55分間で一気に7得点、ガンバの攻撃スタイルが完成した瞬間だった。


 13年待ち望んだリーグ優勝を果たし、まだ興奮冷めやらぬ1週間後のホームスタジアム、ガンバサポーターを集めての優勝報告会があった。最終節のフロンターレ戦を見ながら、集まった顔見知りのサポーター達とあちこちで優勝の喜びを語り合った。

 報告会の中、ニッカンスポーツガンバ黄金の脚賞の表彰があったが、選ばれたのは、僕がもらっていいんでしょうか、という控え気味な橋本選手。34試合中33試合にほぼフルタイム出場し、大いに優勝に貢献した橋本選手。地味なポジションで目立たないが、橋本というピースをボランチに置かなければ完成しなかった今季のガンバのスタイル。受賞は当然だったと思う。

 そして、報告会の最後にはスタンドのサポーターと選手との記念撮影、ゴール裏席のサポーターと選手のビール・シャンパンかけ。初優勝の喜びを選手とサポーターで分かち合った。

何ともいえない至福の1週間だった。
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