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日本サッカーの歴史 03/05/18 (日) | <前へ|次へ|indexへ> |
初の外国人との試合 〜東京高等師範vs.横浜外国人クラブ 文/中倉一志 |
1903年10月4日に、日本最初の本格的なサッカーの指導書である「アッソシエーション・フットボール」を発刊した東京高等師範学校の熱意は、さらに横浜外国人クラブに試合を進展するまでに発展した。12月に横浜外国人クラブに試合を申し入れた東京高等師範は、その旨を校内に公示。参加者を募って正月休も返上して練習に励んだという。その熱意の甲斐があって、翌1904年1月末に、横浜外国人クラブから試合を受け入れる旨の返事が届いたのだった。
日本サッカー史上において、記念すべき外国人との最初の試合は1904年2月6日に開催された。当日は、坪井玄道、馬上幸太郎、可児徳の3人の教官と数十人の学友とともに、11名の選手たちは横浜へ遠征。上下白のユニフォームで戦った11名の選手たちは下記のメンバーであった。
GK 塩津環
FB 粟野信一、小島光二
HB 奥津脩平、江坂廣雄、牧野信寿
FW 上田芳郎、平島貞簾、桜井賢三、瀬口真喜郎、渡辺英太郎
試合は30分ハーフ。「高等師範は経験がないようだからあえて最強メンバーは出さない」という横浜外国人クラブに対し、必死になって対戦した東京高等師範だったが、その実力差はいかんともしがたく、結果は0−9の大敗。試合後は、両者入り混じって30分間プレーした後、東京高等師範学校はビールの招待を受けたと記録されている。日本がサッカーらしいサッカーに触れてから、まだ1年強。当然言えば当然の結果だった。
その後も東京高等師範と横浜外国人クラブとの対抗戦は毎年行われた。2回目の対戦となったのは1905年1月26日。この試合は90分で行われている。当時、東京高等師範では、スコットランド生まれのイギリス人教師のデ・ハビラントがサッカーの指導に当たっており、この試合は自らもCHとして出場する熱の入れようだったが、前半を終わって0−5のリードを奪われ、後半はメンバー全員を代えて臨んだものの0−1。トータル0−6と全く歯が立たなかった。
3回目の試合は1906年1月30日。しかし、この時はレギュラーメンバー4名を栃木師範、群馬師範にコーチとして派遣させていた時期と重なり、ベストメンバーを組めずに横浜に遠征した。60分間で行われたこの試合では、前半こそ0−0と健闘したが、結局、0−1で敗戦を喫している。続く4回目の対戦は、同年2月17日に大塚グラウンドで行われた。90分で行われたこの試合、ホームグラウンドで戦う東京高等師範は前半を1−0とリードして折り返したが、後半にオウンゴールで追いつかれ、惜しくも引き分けに終わっている。
4度目の対戦で引き分けたことで東京高等師範は大いに盛り上がったが、やはり外国人チームの壁は厚く、その後の対戦では、再び実力の違いを見せ付けられることになる。1906年12月には0−6。1907年には2度対戦して、それぞれ0−5、0−7と完敗。そして9度目の対戦となった1908年1月11日の対戦でも0−7で敗戦。全く歯が立たなかった。
そして迎えた1909年1月、大塚のグラウンドに横浜外国人クラブを招いて行われた10回目の対戦で、東京高等師範は初めて横浜外国人クラブに1−0で勝利する。この年は、この試合を含めて2月までに3試合を行ったが、続く2試合も4−1、2−1と勝利を収めて3連勝。見事に、過去9試合の雪辱を果たした。当時の新聞は各紙とも、この快挙を大々的に報じ、東京高等師範関係者も、数年来の研究・努力の賜物と喜びを隠さなかった。
1902年に坪井玄道が持ち帰った書物を紐解きながら、本格的なサッカーを学び始めてから9年。対戦相手がアマチュアの在留外国人だったとはいえ、外国人チーム相手の勝利は、当時としては画期的な出来事だったに違いない。見よう見まねで始めて、試行錯誤しながら独学で学んだ東京高等師範学校の努力が実った結果だったといえよう。日本のサッカーの創生期の中心となって活動を続けた東京高等師範学校は、この後も、日本サッカー発展の起点として活動を続けていくのであった。
敬称略
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