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 日本サッカーの歴史 03/06/16 (月) <前へ次へindexへ>

 初の国際試合 〜第3回極東選手権大会


 文/中倉一志
 1911年の大日本体育協会の設立を契機に、世界(当時は国際オリンピック)への道が切り開かれた日本スポーツ界。そんな中でサッカー界も1917年8月、東京の芝浦埋立地で行われた第3回極東選手権大会で初の国際試合を経験することになる。極東選手権とは、日本・中国・フィリピンの3ヶ国による総合スポーツ大会で、1913年にフィリピンの提案で「東洋オリンピック」として始められ、第2回大会から極東選手権と改称されて隔年で開催。第10回大会まで続けられた。

 当時はサッカーを統括する団体もなく、当然のように全国規模の大会もなかったのだが、日本で行われる国際大会ということもあって、大日本体育協会は開催国の面目にかけてサッカーの参加も決定。代表チームを選定するにあたり、関東では青山師範・豊島師範、関西でも御影師範、奈良師範、関西学院等が予選を行うことを主張したが、最終的には、最強の呼び声高い東京高等師範が、単独チームで日本代表として参加することになった。

 記念すべき初の国際試合は1917年5月9日、中国との間で行われた。しかし、実力の差はいかんともしがたく0−5であえなく敗れ去った。なにしろ、対戦相手がコーナーキックをヘディングでシュートするのを見て、初めてその技術を知ったというのだから、当然といえば、当然の結果だった。続く第2戦のフィリピン戦でも2−15という歴史的な敗戦を喫し、日本を応援しにやって来た観衆からも、さすがに非難の声があがったという。

 記念すべき初の国際試合に出場した選手は下記の通り。第2戦では藤井春吉が2ゴールを挙げて、日本代表初ゴールを決めている。ちなみに、監督の名前は記録されていない。記録の中に代表監督の名前が記されるようになったのは、1951年2月11日に行われた日本代表vs.全関西から。当時は監督を置くという習慣がなかったのかもしれない。


(対 中国戦 ●0−5)
冨田玄弥、芳賀剛吉、武井群嗣、吉木幸三郎、竹内広三郎、上山熊之助、渡辺敏綱、佐々木等、大久保準一、大杉謹一、藤井春吉

(対 フィリピン戦 ●2−15)
冨田玄弥、芳賀剛吉、武井群嗣、吉木幸三郎、竹内広三郎、上山熊之助、渡辺敏綱、佐々木等、大久保準一、藤井春吉、額田登



 ところで、日本サッカー界初の国際試合といっても、惨敗と言わざるを得ない結果には、さすがに各方面から様々な議論が巻き起こった。代表チームとして参加した高等師範関係者は猛省を、そして予選を希望していた他の学校からは反省・反発・奮起の声があがった。また、その一方で、国際大会にデビューしたことで、一般の人たちの間に「蹴球」という競技に対する関心が高まるという面もあったようだ。

 日本代表チームは、第4回大会には出場しなかったが、上海で行われた第5回大会には全関東選抜が代表チームとして参加。日本サッカー界初の海外遠征を行っている。しかし、実力の差はいかんともしがたく、第5回大会以降も日本は大敗を繰り返した。そんな日本が国際試合で初勝利を挙げたのは第8回大会(1927年・マニラ)でのこと。初戦は中国に1−5と大敗したが、2戦目でフィリピンを2−1で破った。そして、翌第9回大会では、とうとう優勝を果たすまでに成長することになった。

(極東選手権における日本代表の戦績)
第3回大会 (1917年・芝浦)  5月9日  中華民国  ●0−5  初の国際試合
 5月10日  フィリピン  ●2−15
第4回大会 (1919年・マニラ)  不参加
第5回大会 (1921年・上海)  5月30日  フィリピン  ●1−3  初の海外遠征
 6月1日  中華民国  ●0−4
第6回大会 (1923年・大阪)  5月23日  フィリピン  ●1−2
 5月24日  中華民国  ●1−5
第7回大会 (1925年・マニラ)  5月17日  フィリピン  ●0−4
 5月20日  中華民国  ●0−2
第8回大会 (1927年・上海)  8月27日  中華民国  ●1−5
 8月29日  フィリピン  ○2−1  国際試合初勝利
第9回大会 (1930年・神宮)  5月25日  フィリピン  ○7−2
 5月29日  中華民国  △3−3  国際大会初優勝
第10回大会 (1934年・マニラ)  5月13日  蘭領インド  ●1−7
 5月15日  フィリピン  ○4−3
 5月17日  中華民国  ●3−4


 ところで、この時期の日本のサッカー界は、東京高等師範学校を頂点に各師範学校が中心となって活動を続けていたのだが、その選手たちでさえ、卒業後にサッカーを続けていけるような環境は日本にはなかった。どんなに優秀な選手であっても、卒業とともにサッカーから離れなければならなかったのだ。極東選手権での惨敗は、技術的に未熟であったことによるものだが、こうした環境が大きく影響していたことも間違いのない事実だった。

 また、各競技団体が独立した組織を設立し、国際オリンピックを目指す中で、普及・強化活動を行っていたのに対し、サッカーにおいては、依然として全国を統括する組織は設立されていなかった。そんな環境の中での極東選手権の惨敗は、サッカーの普及と強化のために、指導と奨励を目的とする団体を設立する必要性を喚起することとなり、そうした組織を設立しようという気運が高まることになった。しかし、現実には組織の設立には手がつけられなかった。

 進まぬ全国統一組織の設立、ままならぬ普及と強化、そして極東選手権での惨敗。この現状を嘆いた東京高等師範学校教授・内野台嶺は、現状を打開するために、「みんなで力を合わせて、日本サッカー界の向上を図ろう」と、東京高等師範、豊島師範、青山師範関係者らに持ちかけた。そして1917年、東京都下に散在していた元選手たちを中心にクラブチームを作ることを決定。「東京蹴球団」が誕生することになる。企業も、各種団体もバックに持たない日本最初のクラブチームの設立だった。

 「日本サッカー協会50年史」(「日本サッカーのあゆみ」)では、当時の様子を記す資料として、「東京蹴球団」設立のきっかけについて内野台嶺が記した文章として、下記の文を紹介している。

 「かねて学校を卒業してしまうと、競技を続けてゆくのが出来ないのを残念に思っていた。学生に対しては機会あるごとに『論語とフットボール』という題で自分の主張は話してきたが、とうとう自分たちも1つのチームを作ってゲームを続けていく計画を立てるようになった。そこへ、芝浦の大会が行われ、中華民国、フィリピンに大敗することになったので、早速、高等師範、青山・豊島両師範の卒業生で、もと選手をしていた人たちを集めて『東京蹴球団』を作った」



 また、「日本サッカーのあゆみ」は、大日本蹴球協会、初代理事である武井群嗣の思い出の記として、下記の文章を紹介している。

「大正6年5月に東京芝浦で行われた第3回極東選手権の蹴球競技には、日本代表選手の一員(主将)として出場し、中国およびフィリピンの両国と戦って、散々に敗れた。しかし、これがよい刺激となって同志の者は蹴球をもっと一般に普及するために、まずその指導と奨励を目的とする団体を組織することを認め、さしあたり、都下に散在している元の蹴球選手を阿集めて1つのクラブを設けることを衆議一決、さいわい先輩や同志の骨折りで、やがて出来上がったのが『東京蹴球団』だった」

 こうして出来た東京蹴球団は、日本サッカーの底上げ、普及、技術向上をを使命として活動。今で言えば、サッカー協会がやらなければならないことを肩代わりしていた。その活動範囲は広範で、北海道をはじめ、東日本でサッカーをやっていた地方の殆どを、しかも自費で回ったというのだから、その情熱には頭が下がる。中心人物として活動した山田午郎が、懇談社出版の少年雑誌の人気投票でNo.1になったというエピソードから察しても、いかに精力的に全国各地を回ったかが窺い知れる。
敬称略
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