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 日本サッカーの歴史 03/05/18 (日) <前へ次へindexへ>

 全国高校サッカー選手権の始まり 〜第1回日本フートボール大会


 文/中倉一志
 サッカー協会の設立は遅々として進まなかったが、サッカーは確実に全国に広がっていった。そして各地方で、それまで行われていた対抗戦を発展させたものとして、本格的な大会が開催されるようになっていく。記録に残る最初の大会は、1917年10月21日に行われた近畿蹴球大会。奈良師範の校庭で行われたこの大会には、開催校である奈良師範の他、明星商業、御影師範、京都師範の4校が参加。トーナメント方式により、明星商業が優勝を飾っている。

 この大会の2週間後には、姫路師範が京都師範に遠征し、引き分けたという記録も残っている。しかし、全国へ広がりを見せていたとは言っても、サッカーがプレーされていたのは高等師範・師範学校を中心とした限られた学校だけでのこと。1873年にアーチフォールド・ダグラス少佐と33人の部下によって日本にサッカーが紹介されてから、既に半世紀近くが過ぎようとしていたが、広く普及していると言える状況ではなかった。

 そんな状況を大きく変え、サッカーが広く普及するきっかけとなったのが1918年に開催された「第1回日本フートボール大会」(現在の全国高校サッカー選手権大会)だった。主催は大阪毎日新聞社。既に野球は、大阪朝日新聞社の主催で全国中等学校優勝野球大会(現、全国高校野球選手権・夏の甲子園)が1915年から開始されていたが、「フートボールは将来、必ず野球に負けずに盛んになるスポーツ」として、サッカーの全国大会を主催することになったのだ。

 大会の設立を働きかけたのは、関西在住の慶應OBの杉本貞一。当時、関西では同志社・第三高等学校・京都一中・京都一商らがラグビーをプレーしていたが、そのラグビーの普及のために全国大会の開催を大阪毎日新聞社に提案。その際、ラグビー(当時はラ式蹴球と読んでいた)だけでは参加校が少ないため、既に全国に広まっていたア式蹴球(当時はサッカーのことをそう読んでいた)を加えた合同大会の開催に至ったのである。



 大会は旧制中学校と高等専門学校を対象としたもので、参加したのは、明星商業(大阪)・関学高等(兵庫)・御影師範(兵庫)・奈良師範(奈良)・神戸一中(神戸)・堺中(大阪)・姫路師範(兵庫)・京都師範(京都)の8校。慶應(東京)が参加予定だったこと、また将来は全国規模の大会にとのことで、「全国フートボール大会」の名前が付けられたが、慶應が大会直前に棄権したため、最終的には関西勢だけの参加で行われた。

 試合方式は参加8チームによるトーナメント戦で行なわれた。決勝戦に進出したのは、1899年にサッカー部を創設し、関西で最も古い歴史を持つ優勝候補筆頭の御影師範と、同じく優勝候補に挙げられていた明星商。この2チームは前年に行なわれた近畿蹴球大会の決勝戦でも優勝を争っており、その時は明星商に軍配が上がっている。実力伯仲の者同士の決勝戦は大接戦。最終的には御影師範が1−0で接戦を制して、栄えある第1回大会優勝チームとして歴史に名を記すことになった。

 なお、その決勝戦の模様を当時の毎日新聞は次のように伝えている。

 「決勝の御影師範対明星商は午後4時15分開始。白衣の御影は東方に、ねずみと白のダンダラのユニフォームを装う明星は西方に陣し、緊張せる状態はさすがに優勝戦たるを思わしむ。試合は開始間もなく、御影の突撃功を奏し、LOF(LW)不動の一躍(ヘディング)的確にゴールインして御影軍の面上気色漂う。明星軍屈する色なく、さらばこうぞと逆襲し見影の前衛に迫り接戦を重ぬれど突破しがたく、前半を終わる」

 「5分ののち陣地を東方に変われる明星軍は最後の活躍に移りしが御影軍の前衛の連携一糸乱れず、明星の躍進を食い止め、しばしば、明星のゴールを脅かし、終始圧迫の気勢を保ちしが、明星さらにひるまず、御影の右翼を抜いて敵陣にに攻め入りしが、福本巧みにドリブルして盛り返し、明星の菅井また奮戦して一進一退、--- 略 --- かくてタイムは猶予なく進み、タイムアップとなり、明星軍の努力も甲斐なくついに1−0で御影は本大会第一回優勝者たる栄誉を得たり」



 当時の資料によれば、御影師範は攻撃に優れたチームで、LWを務める不動選手がその中心であった。決して相手にボールを取られることのないドリブルで左サイドを突破。そこからのクロスボールからゴールを決めるというのが得意のパターンだったようだ。そしてなにより、優れた連携プレーは他チームと比較にならないほど高く、これが勝因の全てであったと記されている。

大会結果(1918年1月12、13日)
1回戦 明星2−0関学 御影2−0奈良 神戸8−0堺 姫路1−0京都
準決勝 明星1−1姫路 御影1−0神戸
決勝戦 御影1−0明星

 なお、同点に終わった準決勝の明星商業と姫路師範について、どのような方法で決勝進出チームを決定したのか記録にないが、当時、同点の場合はCKを多く獲得した方を勝ちとする方式が取られており、おそらく、この試合でもそのルールが適用されたものと思われる。ちなみに、第4回大会からは、CKの数が同数の場合はGKの数で勝敗を決するというルールが適用されたが、その結果、ゴールを狙わずCKやGKを狙うという傾向が強まり、やがて、このルールは消えていった。

 また、余談であるが、豊中グラウンドとは、当時、箕面有馬電気軌道株式会社(現、京阪神急行電鉄の宝塚線)の豊中駅西方田甫のまん中に、同社が沿線開発の目的で設けた野球場のこと。現在は住宅街となっている。現在のスタジアムのような設備はなく、観客は周囲の草むらで試合を見物し、更衣室は天幕を釣った簡易指揮のものだったという話も残っている。また、選手たちには1日中有効の全線無賃パスが配られたそうだ。



 さて、盛況のうちに終えた第1回日本フートボール大会だったが、その運営は、サッカー関係者にとっては、決して歓迎できるものではなかったようだ。もともとは、大阪毎日新聞社が大阪朝日新聞社に対抗する形で始められたので、やむを得ない事情もあるのだが、さすがに蹴球関係者は閉口したようだ。当時の様子を、「日本サッカーのあゆみ」(日本蹴球協会編 講談社刊)では、次のように振り返っている。

 「関西には、まだサッカーの中心となるものがなかったので、新聞社の方が先に立ったのである。こうした時代に新聞社が進んで大会を開いてくれたことには感謝しなければならない。ただ、蹴球関係者側の意見を尊重してもらう余地がなかったのは残念だった。野球担当の記者がラインズマンを手伝ったために、オフサイドは一切考えないといった変則ルールになったり、最後に優勝カップ、メダル授与の後、『大阪毎日新聞社万歳』を唱えて閉会したなどということは、現在ならば、当然批判されることだったと思われる」

 ルールは変則。しかも、大会そのものは大阪朝日新聞社への対抗心で生まれたような大会であったことも否定は出来ず、サッカー関係者の不評は理解できなくもない。しかし、サッカーを統一する組織はなく、しかも、限られた学校でしかプレーされていなかったサッカーの大会を、「日本」という名を冠して開催したことは、その後のサッカーの普及と発展に大きな役割を果たしたことも事実。サッカー界にとっては大きなターニングポイントになった大会であったことは間違いない。

 戦争という不幸な歴史で中断したり、インターハイの開始や毎日新聞社の撤退等で縮小をせざるを得なかった時期もあったが、それでも大会は歴史を追うごとに拡大。特に、全国民放各社による中継の開始や、首都圏開催を機に大会の人気は沸騰し、今では日本サッカー界の冬の一大イベントとして定着している。そして、日本サッカー界を代表する選手を多く輩出してきたことを考えると、誰もがサッカーに注目していなかった時代に貴重な種をまいた大会だったといえる。
敬称略
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