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 日本サッカーの歴史 03/07/14 (月) <前へ次へindexへ>

 各地区で高まるサッカー熱


 文/中倉一志
 日本フートボール大会の開催から1ヵ月後、東京においても中等学校の大会が開かれている。その経緯について、「日本サッカーのあゆみ」(日本蹴球協会編 講談社刊)では、東京高等師範学校・内野台嶺教授の話として、次のように紹介している。

 「クラブ(東京蹴球団の意)の人たちが方々へ行って試合をし、指導をしたとしても限度がある。互いに刺激を受け、磨きあう場として大会を開きたいと高等師範蹴球部の主将竹内廣三郎と相談した。竹内は、さいわい藤本という運動記者と親しくしている。朝日新聞社に話してみようということになった。何回か協議の末、同社の山本社会部長の賞賛が得られ、宣伝・報道の他にも必要経費は全面的に新聞社が負担してくれるめどがついた」

 内野台嶺は、東京蹴球団の設立に力を注いだ中心人物の一人であったが、東京蹴球団でサッカーの普及・強化活動を続けるうちに、大会の必要性を感じたのであろう。当時はまだサッカーを統括する団体がなく、それに代わって、東京高等師範や、東京蹴球団、ならびにその関係者らが積極的に協会がなすべき仕事に取り組んでいたが、そうした大局的な観点に立って行なわれた大会であると言ってもいいだろう。

 それは、この大会の運営面からも窺い知ることが出来る。先に行なわれた「日本フートボール大会」は、サッカー関係者は殆ど関係せず、大阪毎日新聞社が独自の発想のもとで行なわれたもの。既に全国中等学校優勝野球大会(現、全国高校野球選手権・夏の甲子園)を主催していた大阪朝日新聞社に対抗する形で開催されたのだが、この大会を開催したのはサッカー関係者であり、朝日新聞社はあくまでも後援という立場であった。

 大会開催の社告を掲載した当時の朝日新聞を見ても、名誉会長から始まって大会委員長、さらには大会委員に至るまで、全てが東京蹴球団と東京高等師範の関係者で、それ以外にはイギリス大使館から賛助員と顧問の6人が名を連ねているだけ。新聞社側の人間は一切表には出ていなかった。蹴球関係者の努力で出来上がった大会であり、それを快く新聞社が後援した大会でもあった。



 さて、「関東蹴球大会」と名づけられたこの大会は、1918年2月9日から11日までの3日間、中学校によるトーナメント大会と、模範試合の2部門に分けて行われている。トーナメントに参加したのは、豊島師範A・B、青山師範A・B、埼玉師範、明治学園、佐倉中学、横浜二中の8チーム。試合時間は60分で、決勝戦のみ90分で行われた。また、同点の場合は延長戦を行わず、抽選で勝利チームを決めるという方式で行われ、豊島師範Aが優勝を飾った。

 なお、模範試合には、イギリス人の東京クラブ、中国人留学生、朝鮮青年団、東京帝大クラブ、東京高等師範A・B、東京蹴球団の7チームが参加。合計4試合を行ったと記されている。トーナメントで優勝チームを決定するだけではなく、模範試合を開催して多くの観客に試合を見せたところに、この大会の特徴があったとも言える。当時の東京蹴球団が、サッカーの普及・強化を正面から取り組んでいたことが窺い知れる大会でもある。

 さて、この大会の1週間後の2月17日には、名古屋市鶴舞公園において新愛知新聞社の主催で「東海蹴球大会」も開催されている。参加校は、第八高等学校、明倫中学、愛知第一師範、愛知三中の4校。リーグ形式で6試合を行い、第八高等学校が優勝を飾った。2位は明倫中学だった。参加4校の中では年齢的に上位であった第八高等学校が他校を圧倒した大会でもあった。

 当時はまだサッカーをプレーする学校は限られ、広く一般に浸透しているスポーツとはいえなかったが、それでも、東京、大阪、名古屋の三都市で相次いで大会が行われてことは、プレーヤーの数が少ないながらも、すでにサッカーが各地域に広がっていたことを物語るものでもあった。



 ところで、日本にサッカーが普及していく初期の段階では、東京高等師範学校が「サッカーの宗家」的な役割を果たし、その流れを汲んだ師範学校を中心に関西地区でも早くから普及の輪が広がっていたが、広島地方もまた、サッカーが盛んに行われた地域でもあった。いまでこそ、サッカーどころと言えば、多くのサッカーファンが静岡の名をあげるが、オールドファンにとっては、サッカーといえば必ず広島の名前が挙がるほどだった。

 その広島で普及の中心となったのは、東京高等師範学校からの流れを汲む広島高等師範と、県立中学、県立師範の3つの系統だった。広島高等師範が設立されたのは1902年のこと。創立4年目の1906年には、既に課外授業としてサッカーが行われていた。この時期は、いわば兄弟にあたる東京高等師範がさかんにサッカーの研究と普及に努めていた頃で、広島高等師範でサッカーが行われるようになったのも自然の流れだったのだろう。

 また、1905年に付属中学が併設された際、付属中学の教官は主事を含めて9名いたのだが、そのうち7名が東京高等師範学校の出身者。1911年には広島高等師範にオックスフォード大出身のプリングルが赴任してサッカーを指導したことから、付属中学でも盛んにプレーされるようになったとされているが、その素地は設立当時からあったものと思われる。余談になるが、日本サッカー協会名誉会長の長沼健も付属中学の出身である。

 一方、県立中学(広島一中)も、東京高等師範学校の影響を受けてサッカーが盛んになった学校のひとつだ。蹴球を校技として奨励したいと考えた弘瀬時治校長は、1910年度の東京高等師範のキャプテンであった松本寛次を卒業と同時に教師として招き、1911年からサッカーの指導を本格的に開始。その4年後には全校生徒がボールを蹴るようになったとされている。また、1915年には、正月休を利用して関西遠征を実施。姫路師範、神戸一中、同志社等と対外試合を行ったという記録も残っている。

 また、この時期の卒業生たちの中には、関西学院に進学後、関西学院高等部に蹴球チームを結成した平田一三や、後に日本蹴球協会の会長を務めることになる野津謙をはじめ、山口高校、五高、七高、佐賀高、松山高、松江高、六高等の蹴球部設立に多くの卒業生が関与する等、日本サッカーの普及に貢献した多くの人物を輩出している。また、県立師範では、1913年に東京高等師範の出射栄が赴任後、蹴球の活動が始まったとされている。



 さて、広島高等師範、県立中学、県立師範の3つの系統から発達した広島県のサッカーであるが、その過程において、外国人捕虜による影響という特殊事情もあった。1905年、ロシア兵捕虜の一部が宇品に収容されていたが、彼らからボールが欲しいという要求があり、収容所側がボールを都合したところ、捕虜たちはサッカーに興じ、これを見ていた人たちが、面白いゲームだと感心したという話が残されている。

 また、1919年頃には、第一次大戦の捕虜収容所が似島にあり、そこに収容されていたドイツ人たちには、訓練としてサッカーをプレーすることが許されていた。ドイツ人たちは、サッカーを盛んにプレーし、広島サッカーの普及・発展の中心となった広島高等師範、一中、県立師範等と練習試合を行ったという記録も残されている。記録によれば、ドイツ人捕虜たちが行うサッカーは、パスがよく通り、タッチラインからボールを出さない面白いサッカーだと記されている。

 こうしてみてくると、日本におけるサッカー普及の初期の段階では、高等師範学校の影響はもとより、その中心となった関東、関西、広島地方で多くの外国人たちの存在が強く影響していたことが分かる。教師や技師、宣教師、あるいは捕虜と、その立場は様々であるが、彼らがプレーするサッカーは面白く、それを見た日本人たちの興味を強く引き付けたに違いない。
敬称略
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