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 日本サッカーの歴史 03/07/21 (月) <前へ次へindexへ>

 大日本蹴球協会の設立 〜それは勘違いから始まった


 文/中倉一志
 文明開化とともに日本に伝播した多くの近代スポーツは、学校を中心に、さらには日本にやって来た多くの外国人たちの手によって日本に広く普及していった。そして1910年代に入ると、近代スポーツは飛躍的な伸びを見せることになる。そのきっかけとなったのがオリンピック。国際オリンピック委員会(IOC)が嘉納治五郎(東京高等師範学校長)をIOC委員に任命し、加えて、ベルリン五輪への日本の参加を求めてきたことからだった。

 日本のスポーツ界に世界への扉が開かれた。明治維新以降、近代国家への脱皮を図り、世界の強国に追いつけ、追い越せと必死の活動をしていた日本にとって、スポーツの分野でも世界に肩を並べようとしたのは必然のことだったのだろう。五輪への選手派遣のために日本のスポーツ界を統括する団体の必要性を痛感した嘉納治五郎は、早速、濱尾新東京帝国大学総長、高田早苗早稲田大学総長、鎌田栄吉慶応義塾塾長らに呼びかけ、団体設立に向けて動き出した。

 これらの命を受けて実務に当たったのは、東京大学の中村恭平、早稲田大学の安部磯雄、高等師範学校の永井道明、可児徳らの4人。会合を重ねた結果、最終的に、慶応大学、明治大学、第一高等学校の代表者と留学から帰国した大森兵蔵らによって、1911年に日本のスポーツ全体を統括する機関である大日本体育協会が設立された。そして、翌1912年に行われたストックホルム五輪に、陸上の三島・金栗2選手と役員3人を派遣したのである。

 この後しばらくの間、大日本体育協会が代表チームの選考を行っていたが、やがて各競技指導者が独立。国際五輪への参加を目指す中で各競技団体が設立され、また日本も、国際五輪を国威発揚の場として活用した。こうして日本における競技団体は各競技の普及の歴史同様、上から下へと組織化されていったのである。また、日本人の五輪好きはよく知られているところであるが、その理由の一つは、こうした背景にあるのかもしれない。



 しかし、残念ながら、サッカー界には協会を設立しようという気運はあれど、実際には様々な事情からサッカー界を統括する団体の設立は困難を極めていた。そんな時、日本サッカー関係者の度肝を抜くニュースが飛び込んできた。時は1919年3月12日、東京朝日新聞紙上に突如として、イングランド・フットボール協会(FA)から、日本の蹴球協会へ純銀製の立派なカップを寄贈してきてという記事が掲載されたのだ。

 その記事の隣には、いかにも立派なカップの写真も併せて掲載されていたばかりか、更に「日本の蹴球協会設立を祝して銀杯を寄贈するので、全日本選手権大会優勝チームに授与して欲しい」というFAからの書簡まで届いているとも報じられていた。この記事は、内野台嶺(東京高等師範教授)をはじめとするサッカー関係者を大いに慌てさせた。日本にはサッカーを統括する組織はなく、当然のように全日本選手権などは存在すらしていなかったからだ。

 全ては勘違いから始まったことだった。1917年5月に第3回極東選手権が東京の芝浦埋立地で開催され、この大会にサッカーも参加。これが契機になって、1917年から1918年にかけて、関東、関西、東海地区で大会が開催されたことは既に紹介したが、これを外国通信社の記者が誤解。「日本にも国内サッカーを統括する団体ができ、その全日本選手権大会の地方予選が3ヵ所で同時に行われた」と打電し、これがロンドンに届いたのだった。

 このニュースを受けたFAはすぐさま行動に移った。年内(1918年)には、日本に銀杯を寄贈する話がまとまり、1919年正月には、カップと書簡が同時にロンドンを船出したのであった。極東大会に一度出場しただけの日本に、何故、サッカーの母国イングランドがここまでしてくれたのかは定かではないが、サッカーの普及に対する母国の誇りと、日英同盟を結んでいた同胞への親しみが生んだ出来事だったのかもしれない。



 この出来事は日本サッカー界を大きく動かすことになる。同年3月20日、内野台嶺は東京高等師範学校長(大日本体育協会会長)・嘉納治五郎から呼び出され、「このたび英国の蹴球協会から我が蹴球協会へシルバーカップを寄贈してきたが、日本にはまだそのような協会がないから、是非、この際それを設立せよ」と厳命を受ける。そして3月28日、嘉納治五郎が蹴球協会が設立されるまでという条件で、英国大使館でカップの譲り渡しを受けた。

 「これによって、日本のスポーツが一層盛んになり、そしてまた、日英両国の間の国際関係も親密になるように」という英国大使の言葉を受けて、内野台嶺を中心とする東京高等師範関係者は協会設立に向けて奔走する。かねてから内野台嶺と親交のあった英国大使館のウイリアム・ヘーグの尽力を受け、イングランド協会の運営方法やFAカップの規約等の研究も行い、英国大使と貴族院議長徳川家達公爵を名誉会長に仰ぎ、1年交代で優勝カップを授与するところまでこぎつけた。

 しかし、順調に進んだかに見えた設立の準備も会長を決める段階になって難航を極めた。会長を引き受ける人物が現れなかったのだ。内野台嶺を中心に設立活動を行っていた高等師範関係者は、蜂須賀公爵、鍋島公爵、後藤男爵、大谷光明、嘉納治五郎、岸清一らに会長の就任を依頼するも、それぞれにやむを得ない事情があり承諾を得られず、協会の設立は暗礁に乗り上げた。時は1921年、銀杯を寄贈されてから既に2年が過ぎていた。

 そんな折、第5回極東選手権が上海で開催された。この大会で日本サッカー界は初の海外遠征を行ったのだが、この際、大日本体育協会の幹部が代表チームに同行。日本代表は2戦2敗の成績だったが、代表の活躍ぶりと他国でのサッカーに対する関心の高さを実感した体協幹部は、サッカーという競技の重要性を認識。当時の体協理事、近藤茂吉氏の特段の配慮を受けて協会設立の気運が一気に高まった。そして、1921年9月10日、初代会長に今村次吉が就き、大日本蹴球協会が設立されたのであった。



 記念すべき第1回の理事会は1921年9月10日、午後6時より、初代会長である今村次吉の自宅で行われた。協会事務所を京橋区宗十郎町1番地の岸法律事務所内に置くこと、定例理事会を毎月第1日曜日午後6時から行うこと、全国優勝競技会(全日本選手権大会)を1921年11月26日、27日の両日に渡って開催すること等、全9項目に渡る議題が決定された。公式発表は9月16日。蹴球団代表者10名を集めて行った後、都下新聞社、通信社、および全国65のチームに対して書簡を発送した。

 協会の名称は「大日本蹴球協会」、略符号はJFAと定められた。協会規約によれば、「蹴球団体の中枢機関として、サッカーの普及・発達を図ること」が目的とされ、協会が行う業務は、全日本選手権大会の開催、競技規則の制定・解説、ならびにサッカーの指導、サッカーに関する会報の発行、そして、協会の目的を達成するために必要な事項の4つを掲げている。東京に置く本部の他、地方に各支部を設置することも決められた。

 さらに1929年には国際サッカー連盟(FIFA)に加盟。また1931年には、世界の列強国に劣らぬ精神と肉体を作ることを目的とし、中国古典の『准南子』の精神訓や『芸文類聚』の五経精神からとって、太陽のシンボルである3本足の烏(ヤタガラス)を協会旗章に制定した。なお、旗の黄色は公正を、青色は青春を現したもので、はつらつとした青春の意気に包まれた日本サッカー協会の公正の気宇を表現している。

 アーチフォールド・ダグラス少佐と33人の部下によって、日本にサッカーが伝えられてから48年、かくして日本のサッカーはようやく全国を統括する団体の設置にこぎつけた。また1920年代といえば、政府による積極的なスポーツ振興政策の実施がなされた時期。年表を紐解くと、各競技団体ともに、この時期から全国大会が積極的に開催されるようになる。そしてサッカーも、1921年11月に全日本選手権の記念すべき第1回大会が開催され、いよいよ本格的な普及と強化の歴史を歩き始めることになった。
敬称略
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