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日本サッカーの歴史 03/07/28 (月) | <前へ|次へ|indexへ> |
全日本選手権の始まり 〜ア式蹴球全国優勝競技会 文/中倉一志 |
初の全国大会(ア式蹴球全国優勝競技会と呼んだ)の開催を決定した大日本蹴球協会は、全国65のチームに書簡を発送。10月に地方予選を、そして11月26、27日の両日に決勝大会を開催することを通知した。この通知を受けて、東部地区では20チーム、中部地区では3チームが予選を行い、それぞれ東京蹴球団と名古屋蹴球団が決勝大会出場権を獲得。近畿・四国地区では予選を行わず、御影師範が推薦で決勝大会に出場することになった。なお、中国・九州地区は推薦で山口高校の出場が決まっていたが、最終的には旅費が都合出来ず棄権している。
さて、参加3チームの顔ぶれを見てみよう。優勝候補の筆頭と目されていたのが東京蹴球団。日本のサッカーの指導・普及を目的とした設立された日本初のクラブチームで、東京高等師範、豊島師範、青山師範らのOBを中心に、東京都下に散在していた元選手たちを中心に編成されていた。その実力は他を抜きん出ており、第5回極東選手権に参加した日本代表チームに多くの選手を送り出す等、現在のナショナルチームのような位置付けにあった。
その対抗と見られていたのが「関西の雄」御影師範。1899年に日本で初めて日本人だけのチームを編成した歴史あるチームだ。地区の選抜チームを編成して予選に臨んでいたチームが多かった中で御影師範は1校単独チームで参加。しかも、旧制中学のチームというのは異例中の異例だった。大阪毎日新聞社の推薦により出場が決定したのだが、日本フートボール大会で連続優勝を続けていた実力が評価されてのことだった。なお、名古屋蹴球団は、名古屋を中心とした大学・高校の選抜チームで大会に臨んでいた。
決勝大会は東京日比谷公園の芝生運動場に、長さ105メートル、幅69メートルのフィールドを作って行われた。当時の写真を見ると、選手の背後に打ったゴールポストに紅白の布が巻きつけられているのが見える。ゴールポストが紅白というのはいかにも記念すべき大会の象徴のようにも思えるが、色褪せていたゴールポストをペンキで塗り直すと乾かなくなるために急遽とられた苦肉の策だった。
また、このゴールは朝日新聞社が新設して豊島師範にあずけてあったもので、日比谷公園で全国大会をやることになったため、わざわざ池袋にあった豊島師範からリヤカーに乗せて関係者が運び込んだ。しかし、夕方、長い材木を積んだ車を引いて走っている姿が不審がられ、交番の前でつかまり、懸命に理由を説明したという。手作りで行なっていたころならではのエピソードだ。
当時の日本では、サッカーがプレーされていたのは師範学校や、ミッション系の学校でプレーされていた程度で、広く一般に普及してはいなかったため、開催地となった東京以外では関心はもたれず、報道も殆どされなかったようだ。しかし、大会に先立って、朝日、毎日両紙や、名古屋の新愛知が大々的に宣伝を行ってくれたことや、決勝戦当日が晴天の日曜日ということもあって、フィールドの周りは大勢の立ち見の観客で一杯になったそうだ。
そして、試合開始に先立ち今村大日本蹴球協会会長が次のように挨拶し、記念すべき日本選手権の初試合が11月26日午後1:20にキックオフされた。
「このたび大日本蹴球協会主催の蹴球協会を開催するに至りたるを喜ぶ。蹴球はひとり英国の運動たるのみならず、今や世界的の競技となりつつあり。この競技の精神は今さらここにこれを説くに要せじ。諸君、願わくば紳士的にして本競技の精神をますます発揮せられることを」
さて、準決勝を戦ったのは御影師範と名古屋蹴球団。晩秋の強風の中で行われた試合は、得意のスピードと、的確なロングパスでゲームを組み立てる御影師範が終始試合をリード。前半こそは得点を奪えず0−0で折り返したが、後半に入るとその攻撃力が爆発。決定機を確実に決めて、終わってみれば4−0という圧倒的なスコアで名古屋蹴球団を一蹴した。年齢的なハンデがあった御影師範であったが、その実力をいかんなく発揮してみせてた。
翌27日、晴天に恵まれた日比谷公園芝生運動場で初代チャンピオンを決定する決勝戦が行われた。キックオフは午後2:00。そして試合開始のホイッスルとともに、両チームは、その持ち味を発揮して激しい試合を展開した。日本代表チームでもあった東京蹴球団は高い個人技とショートパスを駆使して試合を展開。一方の御影師範は正確なロングキックを武器に大きなサイドチェンジを多用、スピードを生かした縦への突破でゴールを目指した。
全く対照的な良チームの戦い方であったが、前半、試合をリードしたのは御影師範だった。東京蹴球団の個人技は確かに高いのだが、ボールを足元に止めてから次のプレーに移るため、ここを御影師範に狙われた。スピードに物を言わせる御影師範はことごとくボールを奪い、大きな展開から両ウイングがサイドを突破して東京蹴球団のゴールに迫る。そして、チームとしての熟制度でも東京蹴球団を上回り、一方的に攻め続けた。
その戦い振りから、御影師範が東京蹴球団を圧倒するかと思われた。事実、御影師範のシュートの数は東京蹴球団のそれを大きく上回り、また、何度も決定的なチャンスからゴールを狙っていた。しかし、ゴールは遠い。度重なるチャンスもクロスバーに跳ね返され、そしてゴールポストに阻まれてゴールネットを揺さぶることが出来なかった。結局、試合は0−0のままで前半を終了。御影師範にとっては悔やまれる前半となった。
後半に入っても試合展開は変わらず、前半同様、御影師範が優位を保って試合を進めていく。しかし、御影師範の2人の選手が負傷し、さらに時間の経過とともに全員に疲労の色が見られるようになると、東京蹴球団が試合を盛り返しはじめる。そして東京蹴球団は、CKのチャンスからFW安東が頭で合わせて待望の先制点をゲット。結局、これが決勝点となって、東京蹴球団が栄えある初代チャンピオンとして歴史にその名を記すことになり、そして、FAから寄贈されたFA杯が、エリオット駐日英国大使から山田主将に贈られた。
なお、決勝戦の出場メンバーは下記の通り(先発メンバー)
(東京蹴球団) (御影師範) GK 清水 GK 三木 FB 露木、星野 FB 高橋、井上(俊) HB 山田、樋崎、守屋 HB 沢潟、今里、林 FW 菅屋、当麻、安藤、浅沼、忍田 FW 吉野、井上(才)、城戸、丸山、藤原
わずか3チームで行われた第1回全日本選手権大会(ア式蹴球全国蹴球競技大会)。その後、様々な変遷を経て成長していくことになる。第30回大会(1950年度)から全国16代表によるトーナメント制に拡大。更に日本リーグの発足により、第45回大会(1966年度)からは、日本リーグと大学から選抜された計8チームによるトーナメントに変更された。これは、日本サッカー界の強化を狙っての大会方式の変更だった。ちなみに、元旦の国立競技場で決勝戦が行なわれるようになったのは第48回大会(1968年度)からだ。
しかし、元はといえばイングランドのFAカップを参考にした大会。やがてオープン化に向けて動き出すのは自然の流れだった。オープン化されたのは第52回(1972年度)大会から。この年は、全国16地区の予選を勝ち抜いたチームに日本リーグ所属の8チームを加えた24チームで争われた。そして翌1973年、全てのチームが予選から出場する完全オープン化に踏み切った。
このオープン化がきっかけになって、天皇杯は飛躍的に拡大していく。オープン化元年となった第52回(1972年)大会に参加した総チーム数は75(地域予選含む)。その後、参加チームは確実に増加の一途をたどり、第75回(1995年度)大会には2,800チームを数えるまでになった。そして迎えた第76回(1996年度)大会で、日本サッカー協会は更なるオープン化を実施する。そして、この改革が天皇杯に新たな歴史を刻むことになる。
「すべてのプレーヤーにチャンスを与えたい」という天皇杯の理想の元、日本サッカー協会は全国9ブロック制を廃止。全国47都道府県から代表チームを選出するとともに、第2種チーム(18歳未満・高校生)への門戸開放を行なったのだ。そして、各都道府県代表チームに、J1、J2計28チームの他、JFL代表、大学代表、高円宮杯優勝チームを加えた80チームで本選を実施。その結果、第81回大会には6151ものチームが参加するまでに成長を遂げた。天皇杯は、プロ、アマを問わず、すべての第1種、第2種加盟チームが参加できる、日本最強のチームを決定するトーナメントとして生まれ変わったのだ。
敬称略
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