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 日本サッカーの歴史 03/08/11 (月) <前へ次へindexへ>

 全日本選手権の変遷2


 文/中倉一志
 戦後いち早く復活しながらも、その後、世情不安のため、再び中止を余儀なくされた全日本選手権大会。本格的に再開したのは2年後の第29回大会(復活第2回全日本選手権)からであった。この大会から各地の予選が復活。その結果、関東からは東大LBが出場権を獲得し、その他、九州から日鉄二瀬、関西から関大クラブ、中国から東洋工業、そして東海から愛商クラブが決勝大会に参加した。なお、日鉄二瀬と東洋工業は、全日本選手権に初めて出場した実業団チームとなった。

 翌第30回大会(1950年)からは、底辺拡大を目的として、出場資格を全国16地区代表に拡大。それまで東京で開催されていた決勝大会を、全国持ち回りで開催することになった。そして第31回大会から、それまで東西対抗の勝利チームに授与されていた天皇杯が全日本選手権優勝チームに授与されるようになり、全日本選手権は天皇杯全日本サッカー選手権として新しい歴史を刻みはじめた。



 さて1964年、戦後目覚しい復興と発展を果たした日本に国際五輪がやって来た。開催国の意地と誇りをかけて、様々な競技で日本選手が大活躍をするその姿に、日本国内は沸きに沸いた。西ドイツからデッドマール・クラマー氏をコーチとして招いたサッカー日本代表がベスト8に進出したのも、オールドファンにとっては忘れられない出来事だった。そして、この東京五輪を契機に天皇杯もその姿を変えることになる。

 まず行われたのが開催時期の変更。東京五輪を翌年に控えた1963年は日本のスポーツ界は五輪の準備と強化に追われる日々だった。天皇杯もその影響を受けて、第43回大会(1963年)から、例年5月に開かれていた大会を、その年度内の1月に変更。そしてこの第43回大会は、出場チーム数を8チームに減らし、前年度大会の成績により、中大、古河電工、八幡製鉄、東洋工業の4チームに、地区予選を勝ち抜いた日立本社、早大、住友ゴム、関大の8チームで行われた(ただし、古河電工は欠場)。

 続く43回大会(1964年度)では予選を廃止。前回優勝の早大、関東・関西両リーグ1位の明大、関大、インカレ優勝の日大、地元推薦の関大に加え、実業団選手権上位チームの八幡製鉄、日立本社、東洋工業、三菱重工、古河電工の計10チームで開催された。大会方式は5チームずつ2グループによるリーグ戦を行い、各グループ1位同志で決勝戦を行うと言うもの。これまで多くのプレーヤーに開かれていた大会が、強化のための大会として変更する兆しを見せ始めた時期だった。なお、天皇杯にリーグ戦が導入されたのは、この大会が最初で最後である。



 そして1965年に日本リーグが発足すると、天皇杯も強豪チームの強化の大会に姿を変える。全国16地区で行われていた予選を廃止。大学の上位4チームと日本リーグ4チームによるトーナメント戦に生まれ変わったのだ。以降、この方式は第51回大会(1971年度)まで続いた。しかし、もともとイングランドのFA杯を模範にして発足した天皇杯が、再び全てのプレーヤーに門戸を開いた大会に変更されるのは、ある意味では当然の流れだった。

 天皇杯がオープン化され、再び全てのプレーヤーに門戸が開放されたのは第52回大会(1972年度)から。全国9ブロックの予選を勝ち抜いた16チームに日本リーグ1部の8チームを加えた22チームで決勝大会が行われた。ちなみに各地区予選を含めて75チームが参加した。第53回大会(1973年度)には、地域のクラブチームである「テイヘンズFC」が決勝大会に出場。これが契機になり、第54回大会(1974年度)の参加チームは1105チームにまで増加した。

 以降、第57回大会(1977年度)からは決勝大会の参加チームを28チームに拡大。さらに、第64回大会(1984年度)からは32チームにまで決勝大会参加チームを拡大し、予選を含めた参加チームは1476チームを数えるまでになった。イングランドのFA杯にならって始まった天皇杯は、その主旨にならって日本最大・最古の大会として成長を続けることになったのだ。



 ところで、天皇杯の代名詞と言えば「元旦の国立」。元旦の国立競技場のピッチの上でプレーすることは、すべてのサッカープレーヤーにとって大きな憧れの的になっている。全国各地を持ち回りで開催していた天皇杯の決勝戦が国立競技場で行われるようになったのは第47回大会(1967年度)から。そして、元旦に決勝戦が行われるようになったのは第48回大会(1968年度)からであるが、これはNHKのTV中継がきっかけになったものだった。

 当時の日本のお正月の風景と言えば、静かで厳かなものだった。現在のように、各小売店による初売競争もなく、ほとんどの店舗が完全休業。三が日は、初詣や年始周り以外は家族揃って自宅で過ごすというのが一般的な家庭の正月の過ごし方だった。そんな状況はTV界も同じようなもので、年始に放送される番組の殆どは年末のうちにビデオ収録されたものばかり。初春の息吹をみずみずしく伝える番組は非常に少なかった。

 そんな折、NHKの運動部は、元旦にスポーツイベントの生中継番組を制作することを思いつき、その対象としてサッカーを選んだのだ。しかし、当時の天皇杯の開催時期は全国高校サッカー選手権終了後の1月中旬。その直前に公式試合を編成することにサッカー関係者が難色を示すことが懸念されたが、幸いにもサッカー協会の協力を得て、この公式試合が実現した。そして、1967年元旦、第1回NHK杯サッカーが、実業団ナンバーワンの東洋工業と、学生ナンバーワンの関西大学との間で行われた。

 この大会の放送はNHKの予想以上に反響があったようだ。そして、この結果はNHKの予想以外の状況をもたらした。天皇杯の決勝戦を元旦に移行し、それをNHKで中継することになったのだ。そのため、結局、NHK杯サッカーは1968年の1回きりで終了してしまうのだが、サッカー協会からの「NHK杯の名前を消すのは惜しいので優勝チームにカップを提供して欲しい」との強い希望があり、現在にいたるまで、天皇杯とともに優勝チームにNHK杯が授与されている。



 さて、全てのサッカープレーヤーに門戸を開放した大会として成長を続ける天皇杯は、第76回大会(1996年度)に更なる改革に踏み切る。それまで行われていた全国9ブロック制による予選方式を廃止。全国47都道府県から代表チームを選出するとともに、18歳未満・高校生などの第2種加盟チームへの門戸の開放を行ったのだ。そして、これらの代表チームにJリーグ加盟チーム、JFL上位チーム、総理大臣杯上位チーム、全日本ユース優勝チームを加えた80チームで決勝大会が行われるようになった。

 その結果、予選からの参加チームは6000を越えるまでになり、天皇杯は、まさしく全てのサッカープレーヤーが参加する大会へと成長した。Jリーグの開幕により、アマチュアチームとプロチームの格差は広がる一方で、アマチュアチーム、特に地方のクラブチームが上位に進出することは不可能に近くなったが、それでも、年に一度、プロのチームに挑戦できるチャンスを得ようと、多くのサッカープレーヤーの憧れの大会に育っている。

 しかし、その一方で新たな問題も発生している。天皇杯の決勝大会は11月下旬から開催されるのであるが、この時期はJリーグのクラブの契約交渉の真っ最中。Jリーグの規定から、11月末までにクラブ側が来シーズンの契約意志の有無を選手側に伝えなければならないからだ。そのため、戦力外通知を受けた選手や、解雇が決まっている監督とともに大会を戦わなければならず、また、長いシーズン終了直後ということも手伝って、Jリーグの選手たちのモチベーションが上がらないという問題に直面しているのだ。

 契約期間が残っている以上、例え戦力外通知を受けてもベストを尽くすのがプロという指摘もあるが、現実問題として、心身ともにモチベーションの高いチームは数少ない。最近では、モチベーションが上がらないことが公言されることも多く、それが大会の意義を不明確にするという悪循環に陥っているようにも見える。日本最大・最古の大会、プロ・アマを含めた日本一を決定する大会であることは間違いのない事実。その天皇杯の意義を広く浸透させていくことが、これからの課題と言えるだろう。
敬称略
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