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日本サッカーの歴史 03/08/18 (月) | <前へ|次へ|indexへ> |
極東選手権大会と初の海外遠征 文/中倉一志 |
さて、再び話題を1920代に戻して歴史を振り返ってみようと思う。日本サッカー界は東京芝浦で行われた第3回極東選手権大会(1917年)に初めて代表チームを送り込んだわけだが、当時の大日本体育協会会長である嘉納治五郎は、この極東選手権大会への参加に積極的な姿勢を示していなかったとされている。直接的な原因は日本体育協会の財政状態によるものであったが、既に西洋へ目を向けていた嘉納治五郎が国際五輪参加を第一主義に考えていたことが大きな理由であったようだ。
そうした背景から、第1回大会(1913年)には明治大学野球部が、第2回大会(1915年)には陸上、水泳、庭球が、それぞれ個人的に参加したに留まり、大日本体育協会としては参加していなかった。東京の芝浦埋立地で行われた第3回大会(1917年)には、大日本体育協会が大選手団を組織して参加したものの、マニラで行われた第4回極東選手権大会(1919年)には不参加を表明。それどころか、極東選手権大会からの脱退までも通知している。
その表向きの理由は、開催期間中である5月は試験を控えた時期であり、学校を休ませてまで大会に参加させることが出来ないというものであった。また、参加国である中国、フィリピンは日本の敵ではなく、わざわざ選手を送り出す必要を認めないなどという、失礼極まりない意見も聞かれていたようだ。しかし、大日本体育協会は、元々、国際五輪参加を実現するために設置された機関。会長である嘉納治五郎が局地的な極東の分派的な催しに消極的であったからだというのが真相のように思われる。
また、「学校を休ませるわけにいかないから国際大会に参加しない」という論法は、現代においては極めて奇異に感じられるが、当時の日本は一般人がスポーツをする環境など無いに等しい時代。スポーツをプレー出来るのは学生か一部の許された人たちだけで、社会人になってまでスポーツをするということは極めて稀なことであった。したがって、各競技の主力選手は学生であり、学生抜きでは最強チームの編成が不可能という事情があった。
しかし、この決定に各競技団体は猛反発の姿勢を見せた。特に関西地区での反発は強く、なんとしてでも選手団をマニラに送ろうと活動を始めた。そして、大阪の運動記者たちが中心になって遠征費を確保。関西方面の選手を中心にして「日本青年運動倶楽部」という任意団体を組織して16名の選手が参加した。こうして、閉ざされかけた極東選手権大会参加の道がかろうじてつながったのだった。
そうした経緯から、大日本体育協会はそれまでの態度を一転。上海で行われた第5回大会(1921年)には大選手団を派遣して、日本スポーツ界として初めての海外遠征を行った。その後も日本は引き続き選手団を派遣するのだが、極東選手権大会は隔年開催であったため、国際五輪への参加と合わせると4年間で3回も大規模な選手派遣事業を行わなければならず、経済的にも、選手選考・強化等においても手が回らないというのが実態であった。
やがて同様の問題が中国でも発生したこともあり、最終的には中国から大会開催時期の変更について提案がなされ、第8回大会(1927年)から開催サイクルを4年に1度に変更。国際五輪の中間年に開催されることになった。なお、極東選手権大会は第10回大会(1935年)まで継続したが、緊張するアジア情勢と、日本が軍事色を強めたことにより、第10回大会を最後に中止されている。
さて、日本が初の海外遠征を行った第5回大会(1921年)には、サッカーも代表チーム団を送りだした。初の国際試合となった第3回大会では、推薦で代表チームとして参加した東京高等師範が惨敗したことから、この初の海外遠征を行うに当たっては、代表チームを決定する予選会が開催されている。行われたのは1921年の4月〜5月にかけて。東西で一次予選を実施し、それぞれの予選を勝ち抜いたチーム同士で決定戦が行われた。
代表決定戦は5月6、7日の両日、関西代表の関西学院と、関東代表の全関東蹴球団との間で行われた。関東代表の全関東蹴球団とは、東京蹴球団を中心に、東京高等師範、ならびに大学生で編成されていた関東のピックアップチーム。全員で揃って練習が出来なかったり、モチベーションがバラバラであったりと、ピックアップチームならではの難しさもあったようだが、最終的には実力を発揮。決定戦を2連勝して代表の座を獲得した。なお、代表チームとなった関東蹴球団のメンバーは以下の通り。
清水芳介 (東京蹴球団) 露木松雄 (東京蹴球団) 星野秀臣 (東京蹴球団) 森悌次郎 (東京高等師範) 守屋英文 (東京蹴球団) 野津謙 (東京帝国大) 高橋実 (東京高等師範) 後藤基胤 (東京高等師範) 後藤素直 (東京高等師範) 安藤公平 (東京蹴球団) 大橋準 (東京蹴球団) 佐々木等 (東京高等師範出身) 大新田勝海 (東京高等師範) 井染道夫 (明治大学)
日本代表チームとなった関東蹴球団は、毎日午後4時から6時迄、東京高等師範学校のグラウンドで練習を重ねた。ピックアップチームであるがゆえに、互いの連携を整えるのが最大の課題とされていたが、英人東京蹴球倶楽部をはじめ、東京高等師範、青山師範、豊島師範、中国の留学生チームらとの練習試合を重ねてこれを解消。万全の準備を整えて5月19日に日本を出発した。上海に着いたのは5月24日。地元のパブリックスクールと最後の調整試合を行い、来るべき試合に備えたのであった。
記念すべき初の海外遠征試合は1921年5月30日、フィリピンとの間で雨の中でキックオフされた。前半、風上に立った日本はフィリピンと互角の戦いを展開。7分には先制点を挙げ幸先のいいスタートを切ったかに思えた。しかし、その後1点を返されると再び試合は一進一退。結局、1−1のまま前半を折り返した。後半に入ると、風下に立った日本は時間の経過とともにフィリピンに押し込まれるようになり、フィリピンのスピードと、正確なパスをつなぐサッカーについていけずに2失点。結局1−3で敗れた。
続く第2戦は6月1日、中国との対戦。白地に黒の縦縞のユニフォームを身にまとう中国代表は体格にこそ差は感じられないものの、身長では日本を上回っていた。そして、その高さを生かしたヘディングと、スピードある突破で日本を圧倒した。度重なるピンチを必死で防ぐ日本だったが、前半のうちに2点を奪われ、更に後半にも2失点。結局、0−4で中国の前に完敗した。試合中、何とか反撃を試みたのだが、中国GK劉の前にゴールを破ることはできなかった。
なお、日本代表は、この試合で強烈なアウェイの洗礼も受けている。スタジアムは試合開始前から地元中国の観衆で埋め尽くされ、練習中の日本のボールがスタンドに入ると、そのボールを中々返してくれない。また試合中には中国の選手から故意とも思えるようなファールを受け、試合終了後には興奮した観衆に日本選手が取り囲まれて身動きが出来なくなるという緊迫した場面もあった。時代は日本が軍国主義の色を濃くし、中国に対しても支配色を強めていた時であり、そうした政治的な背景も大きく影響していたのだろう。
第3回極東選手権大会の雪辱をきして臨んだ上海での大会だったが、中国、フィリピンとの間の力の差は、まだまだ大きかった。中国、フィリピンともに不要なドリブルは一切行わず、常にトライアングルを形成してショートパスをつないでボールを運び、両サイドの突破からクロスボールにヘディングで合わせた。ロングボールとドリブルが中心で、ドリブル突破が唯一の攻撃の手段であった日本サッカーとは大きく異なっていた。
技術面での差も大きかったようだ。両国がテンポよくボールを動かすのに対し、足元に止めてから次の動作に移る日本のプレーは実に緩慢。そして、遠目の位置から強く低い、そして正確なシュートを放つ両国と違い、日本はミドルレンジからシュートを打つことは無く、そしてシュートの正確性に欠いた。さらには、サイドからのクロスボールに合わせるヘディングの技術も日本は大きく劣っていた。
また不慣れな環境も少なからず影響した。日本にはない芝生の、しかも一回り大きなグラウンドでのボール扱いは日本の選手を戸惑わせ、芝の上を綺麗にスライディングしてボールを奪う中国やフィリピンの選手とのスライディング技術の差は歴然としていた。加えて、初の遠征ということもあって、不順な天候、慣れない食物、さらには試合前の移動等で体調を崩すものが続出。殆どのものが体調不良の中での試合を強いられ、中国との試合では主将は体調不良でベンチ入りすることすら出来なかった。
日本は第3回大会の雪辱を果たすことが出来なかった。しかし、5−0、2−16で敗れた第3回大会と比較すれば大きく前進していることも確かだった。この大会が終わり、サッカーを民衆化すること、一般に人たちに理解され普及されることが強化の第一歩と言う意見が相次ぎ、日本のサッカーは次のステップへ向けて歩き始めることになる。
敬称略
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