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 日本サッカーの歴史 03/08/25 (月) <前へ次へindexへ>

 もうひとつの高校サッカー選手権 〜全国高等学校ア式蹴球大会


 文/中倉一志
 日本のサッカー界の発展の起点となったのは、1918年に開催された「第1回日本フートボール大会」(旧制中学による大会)であることは疑いのない事実であろう。戦後の学制改革に伴い、「全国高校サッカー選手権大会」と名称変更された後も多くの歴史を重ね、日本で最も古い歴史を持つ大会に発展。現在でも日本サッカー界の最大のイベントのひとつとして注目を浴び続け、高校年代の強化の中心としても重要な位置を占めている。

 その一方で、現在では殆どその歴史が振り返られることはないが、日本のサッカーの黎明期にあって、日本サッカーの発展に大きな貢献をした大会がある。それが「全国高等学校(旧制)ア式蹴球大会」だった。戦後の学制改革によって旧制高校が廃止されたため、旧制学校とともにその歴史を終えたが、初期の日本サッカー界をリードした大学サッカーの隆盛はこの大会によるところが多く、間違いなく日本のサッカーを支えていた大会であった。



 その大会について紹介する前に、当時の学制について触れておきたいと思う。当時の学制は、小学校(6年)−中学校(5年)−高等学校(3年)−大学(3年)というもの。この他、師範学校は小学校卒業後、高等小学校(2年)を経て進学し、その就学期間は5年。また高等師範学校は中学校を卒業した者に入学が許され、その期間は3年であった。なお、中学校卒業と同時に社会に出るというのが当時の一般的なパターンであったようだ。

 そんな中にあって、旧制高校の役割は現在の高等学校とは大きく異なっていた。その役割は、大学に進学するための予備的機関として高等教育を実施することであり、いわゆる国のエリートを養成すること。旧制高校への進学は困難を極め、例えば、1935年の官立旧制高校の入学試験の競争率は7.3倍にも達している。他方、官立旧制高校の入学定員は、帝国大学(現在の九大、大阪大、京大、名古屋大、東大、東北大、北大)の入学定員とほぼ同数であり、旧制高校の卒業生の殆どが帝国大学へ進学していたことが窺い知れる。

 一般に旧制高校として呼ばれている学校は、官立27、大学予科3、私立8の38校。前述の通り、官立27校の生徒たちは、まずは、当時1期校と呼ばれていた東京帝大か京都帝大の進学を目指し、次いで2期校である他の5つの帝大へ進学するのが一般的であった。また、大学進学や就職に関する心配はさほどなかったことから、3年間は比較的自由に過ごすことが可能で、サッカーをしていた生徒たちにとっては、思う存分サッカーに打ち込める環境にあったと言うことが出来る。

 また、選ばれた人間をエリートに養成する機関であったことも影響して、学生たちの意識は相当高かったことが想像される。日本にサッカーが紹介された初期の段階で、東京高等師範が大きな役割を果たしたことは既に紹介済みであるが、その中心が学生たちであったことも、こうした背景が影響しているものと言えよう。そして、「全国高等学校(旧制)蹴球大会」の開催に当たっても、当時の学生たちが大きな役割を果たすことになる。



 この大会の設立に深く関わったのが、後に日本蹴球協会の会長を務めることになる野津謙、そして、鈴木重義、新田純興の3人だった。当時、野津と新田は東京帝大の学生、鈴木は早稲田大の学生だった。互いの自宅や下宿に集まっては、どうしたら日本のサッカーが強くなるかばかり話し合っていたという3人の情熱は熱く、我を忘れて午前様になるのは日常茶飯事。ある時は、夜中の道を帰宅途中に、ピストル強盗の深夜非常警戒に引っかかったなどというエピソードまで生んだほどだった。

 そんな3人の中心人物であった野津は、広島一中時代にサッカーを始め、東京帝大進学後、東京帝大の学生たちで運営されていた複数のサッカー団体をまとめて帝大蹴球団という組織を作り、東大サッカー部の基礎を築いた人物。当初はボート競技に主体を置きながらサッカーをプレーしていたが、上海で行われた第5回極東選手権大会に日本代表選手として参加し、そして全敗に終わった悔しさから、やがてサッカーに打ち込むようになった。

 当初、野津はボートのトレーニング方式をサッカーに取り入れることを目的としていた。まだスポーツとしてはマイナーな部類であったサッカーのトレーニング方法に物足りなさを感じていたからだった。そんな折、大学でのリーグ戦の必要性が論じられるようになり、東京帝大サッカー部をいかに強くするかが野津の新たな目標となった。その結果、官立の旧制高校による全国大会をやれば、旧制高校のレベルアップが図られ、そうした選手たちが最終的に東京帝大に進学し、東京帝大サッカー部が強くなると考えたのだった。



 時は1922年12月。万朝報(後の時事通信社)の鷲田から300円(当時の大卒の初任給が50円)の資金提供を受け、野津は全国高等学校(旧制)ア式蹴球大会の設立に向けて奔走する。野津にとっては卒業試験が目前に迫った大切な時期であったが、当時の心境を野津は次のように語っている。「大会をやり遂げるにはどうなってもかまわないと思い、このとき初めて学業を放り出した。これは今考えると蹴球協会に対する一番大きな僕の決意であったように思う」(東大蹴球部史「闘魂」創刊号)

 もともと、東京帝大のサッカーを強くすることを目的としていた野津は、大会そのものを官立の旧制高校で行うことを考えていた。しかし、鈴木がこれに猛反対。早稲田高等学院に参加させることを強く要請したのだ。早稲田高等学院は「高等学校令」で出来た第1回の私立の旧制高校。これを除外するとは何事だと強く迫った。結局、その主張に折れた野津は、私立の旧制高校も含めた形で全国高等学校(旧制)蹴球大会の開催にこぎつけた。

 そして翌1923年1月4日、東京帝大主催により、第1回全国高等学校(旧制)ア式蹴球大会が、大塚にあった高等師範グラウンドで開催された。参加校は水戸、八校、山口、一高、松江、早稲田高、明大予科、七高の8チーム。試合はトーナメント戦で行われた。決勝戦では山口と早高が対戦。前半20分に先制点を挙げた早高は、続く32分にも2点目をゲット。山口は惜しいチャンスを逃し、前半は早高2−0のリードで折り返した。後半に入ると、守りを固める早高に対し、疲れの見える山口は反撃の糸口を掴めず。結局、試合は2−0のまま終了し、早高が優勝を飾った。

 第1回大会で優勝を飾った早高は、翌年の大会でも優勝を飾り2連覇を達成。官立高校のレベルアップを目的としていた野津は、この結果を「困ったけれどしようがない」と振り返っている。しかし、この大会から多くの名選手や、後の日本代表選手が生まれ、その多くが東京帝大に進学。その影響を受けて、東京帝大は東京コレッヂリーグにおいて、第2回大会から6連覇という偉業を達成した他、東西両リーグの優勝者同士で争う東西学生蹴球対抗決定戦においても3連覇を達成した。



 さて、8校で始まった全国高等学校(旧制)ア式蹴球大会は順調に成長を続け、第17回大会(1940年)には27校が参加するまでになった。当時は予選は行われることはなく、全国大会一本の形式で行われていた。全国4ブロックによる地区予選が導入されたのは1946年、1947年の両大会。まだ戦後の混乱が治まらぬ頃で、交通事情や食糧事情等は劣悪な状況にあり、大規模な全国大会を開催することが不可能であったための処置であった。

 そして、学制改革により旧制高校の廃止が決定されると、それに伴い全国高等学校(旧制)ア式蹴球大会は、その歴史の最後となる大会を1948年10月12日〜17日の日程で開催した。場所は京都大学運動場。まだ戦争の傷跡が残る時代であったが、全ての旧制高校に参加を呼びかけ、従来の全国大会一本形式で大会を行った。参加した22校は、それまでの歴史に違わぬ激しい試合を展開。決勝戦では前年度優勝チームの広島高校が姫路高校を破り、2連覇を達成するとともに、最後の優勝チームとしてその名を歴史に刻んだ。

 大正天皇の崩御、そして不幸な戦争のために4回の中止を挟んだが、全国高等学校(旧制)ア式蹴球大会は、25年間の長きに渡って大学サッカー界へ人材を送りつづけ、日本サッカーの発展に大きな足跡を残した。大会が現存していないことから、その歴史が脚光を浴びる機会は少ないが、日本サッカーの強化と普及という面において、その貢献度が高かったことは間違いない事実だろう。
敬称略
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