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 日本サッカーの歴史 03/09/01 (月) <前へ次へindexへ>

 大学サッカーリーグの開始


 文/中倉一志
 既に紹介の通り、近代スポーツが日本に紹介された頃は、スポーツに親しむ習慣も、スポーツに触れる環境も日本には皆無といっていい状況だった。また、こうした近代スポーツの普及は高等師範学校・師範学校・旧制中学を中心に行われたため、当時のスポーツの中心も、同様に高等師範学校・師範学校・旧制中学であった。したがって、大学が日本スポーツ界の中心になるには、これらの卒業生が大学へ進学してくるのを待たなければならなかった。

 サッカーも他のスポーツと同様の状況だった。1920年代初期の全日本選手権優勝チームの殆どが高等師範学校・師範学校・旧制中学のOBによって編成されたチーム。大学は単独でチームを編成することが出来ず、付属中学や師範学校の選手を借りて試合に出場するというのが実情だった。こうした現状に、このままでは強くならないと危機感を抱いた大学は、実力向上のために、大学単独チームによるリーグ戦の実施に踏み切ることになる。

 「専門学校蹴球リーグ戦」と呼ばれたこの大会には、東京高等師範(現、筑波大学)、東京帝国大学、早稲田高等学院、東京商科大(現、一橋大学)の4校が5円ずつを拠出して参加。「雨であっても、雪であっても、暴風雨でもない限り試合は実施」と申し合わせて行われた。試合日程は、1922年1月29日、2月5日、12日の3日間。1日2試合ずつ行われた。ちなみに、この大会が日本における最初のリーグ戦として記録されている。

 小石川にあった大塚師範のグラウンドを借用して行われたこの大会は、延長を実施しない引き分け制を採用。当時採用されていた「同点の場合は、GKやCKの数で勝敗を決める」という方式は取られなかった。勝ちチームに2、引き分けの場合は1の勝点が与えられ、総勝点数によって順位を決定。同勝点の場合は再試合によって順位を決定するとされていた。優勝を飾ったのは東京高等師範。以下、東京帝国大学、早稲田高等学院、東京商科大の順だった。



 こうして始まった専門学校蹴球リーグ戦は同年11月にも実施されたが、その際、次回の日程を決定する段になって選手が揃わない学校があり日程決定が難航。また、翌年の1923年は全日本選手権に加え、第6回極東選手権大会の代表チーム決定戦等があったためにスケジュール調整がつかず、結局は中止されることになった。しかし、リーグ戦の重要性に対する認識は変わらず、1924年、更に拡大された形でリーグ戦を実施することが決定された。

 この新しいリーグ戦の設立に奔走したのが、当時まだ学生だった野津謙(東大)、鈴木重義(早大)、範多竜平(慶應)の3人。当初は東京にある6大学の参加により開催が予定されていたリーグ戦だったが、最終的に旧制高校と専門学校も含めて開催することを決定。参加12校を1、2部に分け、1925年1月〜2月にかけて本格的なリーグ戦をスタートさせた。大会名は「ア式蹴球東京コレッヂリーグ」と名づけられた。なお、第1回の参加校、大会概要、大会結果については下記の通り。

大会期間 1925年1月〜2月
大会概要 @1部、2部制を採用
A試合時間は90分、1回戦総当りのリーグ戦とする
B引き分けを採用。延長は実施せず
CCK、GKの数は勝敗の問題にせず
D勝ち点2、引き分け1とし、総勝ち点で順位を決める。
E同勝ち点の場合は順位決定戦を行う。
F1部最下位と2部1位は自動入れ替えとする
参 加 校 1部 早稲田、東大、東京高等師範、法政、慶応、農大
2部 一高、明大、外語大、青山学院、東京商科大、東京歯科大
大会結果 1部リーグ最終順位 2部リーグ最終順位
優勝 早稲田 優勝 一高
2位 東京帝大  2位 明大
3位 高等師範 3位 外語大
4位 法政大 4位 青山学院
5位 慶応大 5位 東京商科大
6位 農大 6位 東京歯科大

 ちなみに、1、2部の区分けは代表者同士の協議により決定したが、最初の打ち合わせに一高代表者が欠席したため、欠席裁判により一高の2部が決定した。この決定に憤慨する一高に選手の中には、リーグ戦の参加を中止すべきと言う者もいたが、結局は、実力で1部を勝ち取ろうとのことで2部からスタートを承諾。見事に1部参入を果たした。

 翌1925年11月からのリーグ戦では加盟校が18校に増加し3部制を導入。さらに、1920年には21校による4部制を実施する等、ア式蹴球東京コレッヂリーグは、その後も順調に参加校を増やしていき、1932年には31校参加による6部制までに拡大した。そして、1935年に参加校がとうとう37校にまで拡大したのを機に、高専19校を分離して18校による3部制を実施。名称も「関東学生蹴球連盟」に改めた。そして、今日の関東大学リーグへと発展していくことになった。



 一方、関西では、ア式蹴球東京コレッヂリーグが開幕する1年前の1924年1月に、関西大・神戸高商・関西学院による「関西専門学校ア式蹴球リーグ」がスタートしている。サッカーにおいては関東に負けない古い歴史を有しながら、全日本選手権の優勝チームは未だ出ず、日本代表チームも関東に独占されていた関西では、これらの不振を払拭すべく、関西大・神戸高商・関西学院が協議。関西専門学校ア式蹴球連盟を立ち上げるに至った。

 大阪朝日新聞社の後援を受けて始まった第1回リーグ戦は、1924年1月18日、19日、20日の3日間の日程で行われた。結果は、関西大学が1勝1分、以下、神戸大1勝1敗、関西学院1分1敗であった。勝点制で順位をつければ関西大学優勝ということになったのだろうが、大会規定では他の2校に勝たなければ優勝とは認めないとされていたため、優勝校は決定せず、優勝杯は大阪朝日新聞社が保管することとなった。そして、同年秋に行われた第2回目のリーグ戦で関西大学が2勝を挙げ、初代チャンピオンの座についた。

 同リーグは、翌1925年には大阪外語大と和歌山高商が加わって5校に、さらに1926年には京都帝大、神戸高工が加わって7校に拡大。続く1927年には大阪高工、大阪高商が加わって9校になったため、1部5校、2部4校による2部制を開始。その後も毎年のように参加校が増加し、1935年には5−5−4の3部制に移行。1940年には各5校ずつの3部制となった。そして、関西専門学校ア式蹴球連盟は関西大学リーグへと発展し、関東と並ぶ二大勢力として、大学サッカー界を牽引していくことになる。



 このように、ほぼ同時期にリーグ戦をスタートさせた東西の学生リーグであったが、1929年には東西大学リーグ戦覇者による「東西学生蹴球対抗決定戦」が開始されることになった。中学、高等学校(ともに旧制)で活躍した選手たちが大学でプレーするようになっていたこの時期は、大学サッカー界は日本で最も高いレベルを誇っており、この大会は事実上の日本一決定戦。また、全日本選手権以外に東西のチームが試合をする機会はなかったため、全日本選手権と並ぶ二大行事として大いに注目を浴びることとなった。

 記念すべき第1回大会は1929年12月25日、東京の神宮競技場で行われた。関東代表の東京帝大、関西代表の関西学院ともに、1926年以来4連覇中の強豪で、名実ともに日本一を決定するにふさわしい顔ぶれとなった。王者の意地をかけて戦う両校は前半を終わって2−2と一歩も譲らぬ試合を展開。最終的には、後半に1点を加えた東京帝大がそのままリードを保ち、3−2で初代チャンピオンの座についた。

 しかし、スコアの上では僅少差だったが、内容的には東京帝大が関西学院を圧倒した試合でもあった。試合の様子について、当時の朝日新聞は下記のように論評している。

 「遠征関学は東大フォーメーションの整然たるものに対し定型なく、進むよりも退く度の退嬰的戦法をもって終始してしまった。殊に東大に1点を選手されてからは焦燥だけが取り残されて、しかも、この間に東大のチームワークを整備させてしまったのは拙い。・・・(中略)・・・東大は個人の走力優れフットワークも関学の上にあり、球を比較的多く自軍に収め巧みに裁いていた。・・・(中略)・・・そして、その球の動きの上にも、関学の無鉄砲な放出に対し、東大は無理なく着実な一歩一歩を踏んでいた。これ勝敗を分つ主因と言えよう」(朝日新聞 1929年12月26日付 山田午郎)

 この後、東京帝大は3連覇を達成(第3回大会は同点のため関学と両校優勝)。第4回大会に慶大が優勝した後は、早大が4連覇を達成する等、東西学生蹴球対抗決定戦においては、関東が関西を凌駕する時代が続き、関西の大学が単独優勝を遂げたのは第10回大会のことであった(優勝校・関西学院)。その後、大学サッカー界は変遷を重ね、現在では、総理大臣杯全日本大学サッカートーナメント、全日本大学選手権、全日本大学サッカー地域対抗戦が主要3大会となっているが、関東優位の図式は今も昔も変わっていない。
敬称略
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