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 日本サッカーの歴史 03/09/15 (月) <前へ次へindexへ>

 国際試合で初勝利 第8回極東選手権大会


 文/中倉一志
 日本全国を巡回してサッカーの基礎を指導したチョウ・ディンは1925年にビルマへ帰国したが、その教えを受けた生徒たちは高校・大学でその腕を磨き、さらに、チョウ・ディンの指導を後輩に引き継ぐという形で、日本のサッカーの実力は大学を中心に飛躍的に向上していった。そして1927年8月27日、第8回極東選手権大会フィリピン戦で、日本はとうとう国際試合での初勝利を挙げることになる。1917年5月9日、中国との間で初めて国際試合を戦ってから10年目の出来事だった。

 当時はまだピックアップチームを編成するという習慣も考えもなく、極東選手権大会開催の都度、国内で予選を実施して優勝チームを日本代表として大会へ送り込んでいたが、この時の代表チームである早稲田WMWは、早大のOBと学生たちによるチーム。いわばチョウ・ディンの直弟子にあたる選手たちだった。また、補強選手として加わった4人のうち、東大の竹腰重丸もまた、山口高校時代にチョウ・ディンの指導を受けて才能を開花させ、後に日本サッカー界を支えることになる人物だった。なお、代表メンバーは下記の通り。

氏  名 所属チーム 出 身 校
本田 長康 早稲田WMW 高等師範付属中
近藤 台五郎 水戸高校 高等師範付属中
鈴木 重義 早稲田WMW 高等師範付属中
杉村 正三郎 早稲田WMW 天王寺中
有馬 映夫 早稲田WMW
高師 康 早稲田WMW 浦和中
高橋 茂 早稲田WMW 佐倉中
玉井 操 早稲田WMW 明治学院
春山 泰雄 水戸高 高等師範付属中
竹腰 重丸 東京帝大 大連中
朝倉 保 早稲田WMW 横浜二中
西川 潤之 法政大 高等師範付属中
滝 通世 早稲田WMW 市岡中
杉村 正二郎 早稲田WMW 暁星中
横村 三男 早稲田WMW 横浜二中
鈴木義弘 早稲田WMW 早中
伊東 聖 早稲田WMW 横浜二中

 この大会に臨むに当たって、日本はいくつかの対策を練って上海に乗り込んだ。まずひとつは、補強した選手たちが早稲田WMWの戦術になじむよう、大会前に猛練習を繰り返したこと。2番目は、上海への遠征に当たって大会開始前の25日に到着するように出発したこと。これは、当時の経験からそうしたものであるが、慣れない土地での生活期間を短くすることによって、ストレスが貯まらないようにするための方策だったようだ。

 そして、第5回極東選手権大会では慣れない芝のグラウンドに戸惑った経験から、上海に着いてすぐに、サッカーの会場であるパイオニアグラウンドで練習を行っている。また、東亜文書院の職員に依頼し、あらかじめフィリピンの試合をスカウティングしてもらい、フィリピンの特徴を事前に把握することに努めていた。国際大会での勝利を目指して万全の準備を行って大会を迎えた日本代表は、8月27日に、まずは中国と対戦した。



 序盤戦こそは中国陣内に攻め込み、いくつかのチャンスを作った日本だったが、強国中国に時間の経過とともにペースを握られ、あっという間に3点を奪われてしまう。一矢を報いたい日本は41分、春山からのパスを受けた玉井が見事なシュートを決めて1点をゲット。後半の反撃に期待をつないだ。しかし、後半、前がかりになって攻める日本の逆を取るかのように、曹柱成、陳光輝にゴールを決められて、結局は5−1で完敗してしまった。

 中国は広東地方のピックアップチームで極東大会経験者は2〜3名ほど。順調に若手が育っており、チームの層の厚さで日本を大きく上回っていたようだ。当時のアサヒスポーツに、野津謙(後の蹴球協会会長)が中国戦の感想を寄せているが、それには、中国は前回大会よりもチーム力が向上していたこと、両ウイングの活躍が素晴らしかったこと、走力・ジャンプ力・パス・ヘディングともに、日本を圧倒していたこと等が述べられている。

 また、得点差ほど圧倒的に押されたわけではなく、それなりにチャンスも作ったのだが、いまで言う中盤の力不足が、そのまま試合の結果に出てしまったようだ。特に、両ウイングの力の差はいかんともしがたかった。「フィニッシュが組み立てられない」と評されたように、ウイングからのラストパスの精度が中国とは決定的に違っていた。しかしながら、これといった欠点が見つからない中国に敗れたことは、当時の日本としてはやむを得ないことだった。



 さて、2日後の8月29日、日本はフィリピンと対戦。フィリピンのキックオフで試合が開始された。試合は、日本が攻め込みながらも相手GKの攻守で得点が奪えず、逆にロングキック1本から先制点を奪われるという展開になったが、後半に得たPKで1点を返すと、そのままの勢いで竹腰がゴールを奪って逆転に成功。その後、疲れの見えるフィリピンに反撃する力はなく、このまま2−1で逃げ切って、日本は国際試合初勝利を挙げた。

 翌日、8月30日付の朝日新聞は、「日本勝つ」「対比島蹴球戦」「大会参加以来初めて」との見出しをつけて、試合の模様を次のように伝えた。

日本対フィリピンの蹴球戦は29日午後5時25分から杜連科氏レフェリーの下に開始。日本は前半フィリピンに1点を許したが、後半2点を占めて、2−1のスコアをもって極東選手権参加以来ここに初めて勝利を占めた。

【前半】
 フィリピンのキックオフで開始。日本フォワードの連絡良く、続けて2つのコーナーキックとったが惜しくも入らず。フィリピンのロングキックをフォワード取りて日本のゴールに迫り、LW(レフトウィング)モンフォルトのパスをRI(ライトインナー、いまで言う1.5列目の選手)トロンクエド、シュートして1点を先取。次いで15分、日本のLI竹腰はCF春山のパスにより敵のゴールに迫れども敵のゴールキーパー、メデルの防備固くして入らず、また30分日本のフォワード良く攻め、35分コーナーキックを獲得したがゴールキーパー、メデルの好守に空しく、1−0でタイムとなる。

【後半】
日本キックオフから優勢で25分ペナルティキックを取り、シュート見事に決まって1点を奪い同点となる。30分日本再び攻勢に出て、敵のパスを竹腰取り、春山と2人で攻め、敵のフルバックを抜き、竹腰のシュート決まって、ここに1点をリードした。その後フィリピン漸次疲労し、活動鈍って得点なく、2−1のスコアをもって見事の勝利、閉戦6時40分。

 前半は、日本は右サイドを中心に攻撃を組み立てたが、そこはフィリピンが得意とするサイド。相手のウイングに切り返されて、思うように攻撃を組み立てられないうちに1失点を喫してしまった。しかし、後半に入ると相手の弱点である左サイドを攻めて押し込み、2点を奪って逆転。見事に作戦がはまった形になった。傑出した選手はいなかったが、チョウ・ディンの教えを守り、組織力で戦った成果であった。試合後は、上海の空の下に早稲田大学の校歌が響きわたったそうだ。



 チョウ・ディンの指導により着々と実力を向上させていった日本。第8回極東選手権大会で国際試合初勝利は、それが具体的な形となって現れたものだった。しかしながら、当時の日本サッカーの実力は、相対的にみれば、世界はおろかアジアの中でも、まだまだ下位に甘んじているのが現状だった。1928年アムステルダム五輪を視察した日本選手団本部役員 郷隆、野津謙、千葉四郎、在ベルリンの藤田薬学博士の4氏は、世界と日本の違いについて、下記のような感想を当時の運動雑誌に掲載している。

スピードが違う。ランニングの速さを、まずもっと早くしなければならない。
日本では相手に攻め込まれると、前衛は、中・後衛がどうにかしてくれるだろうとのんきに構えている。それまで攻めにまわって者は歩いている。少なくとも小股で速くかけて帰ることの練習をしなければならない。相手のパスの方向を狭めるくらいの努力はしなければならない。
日本は敵が球を取ると身構えるが、外国では味方が球を取ると身構える。
東大あたりでバックパスを使い始めたが、パック陣もグングンあがって相手をどしどしオフサイドにかけろ
南米には立派なコーチが大勢いて日本にきたがっている者もあった。1人のチョウ・ディンが来て、英物・竹腰が生まれたのだから、外人コーチの招聘を考えたらどうか。
ドリブル中に急停止したり、身体を反転して相手から離れたり、後続してくる味方に踵でパスをして自分はそのまま突進したりといった、日本では全然見たことのないプレーが外国で目に付いた。
相手のボールを奪い取るタックル、ことにスライディングタックルで危機を防いでいる場面をたびたび見た。

 しかし、日本はその後も急速な進歩を続けていく。当時は、社会人がスポーツをするという余裕も機会もなかったが、その代わり、大学が日本のスポーツの中心となってレベルの向上に一役買った。官立学校の旧制高校の卒業生と帝国大学の入学数がほぼ同一という当時にあっては、高校から大学に渡る6年間は比較的自由にスポーツに打ち込める時間と環境があった。それに学生たちの研究熱心さが加わって、サッカー界は大きく成長していくのであった。
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