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 日本サッカーの歴史 03/09/22 (月) <前へ次へindexへ>

 日本と韓国のサッカー サッカー交流の始まり


 文/中倉一志
 日本サッカー界の永遠のライバル、韓国。日本との間にある不幸な歴史は、日本との健全な交流を妨げてきたが、アジアで初めて開催された2002年FIFAワールドカップTMを日本と共催したことで、両国は新たな歴史を刻もうとしている。両国間に存在する過去の不幸な歴史は、ワールドカップを共催することで精算できるほど軽いものではないが、サッカーが、そしてスポーツが、今までの垣根を少しでも低くし、新たな関係を作ることの手助けとなるのなら、これほど素晴らしいことはないだろう。

 2002年の日本のパートナー韓国と日本のサッカーの交流は意外と古い。日本で急速にサッカーが普及していった1920年代には、既に両国間を行き来して数多くの試合が行われている。ただし、当時の韓国(以下、朝鮮と表記)は、1910年8月22日に調印された「日韓条約」により朝鮮の統治権が完全に日本に譲渡され、事実上、日本の植民地とされていた時期。「大韓帝国」と定められていた国号も、日本により「朝鮮」に改められていた。

 したがって朝鮮との対戦は、日本にとっては国内のある地域のチームとの対戦といった程度の認識でしかなかったかもしれない。しかし、朝鮮にとっては、それは自分たちの誇りを取り戻し、日頃の屈辱を堂々と晴らすことができる機会だった。もともと朝鮮半島では、サッカーの試合は運動会や各種競技会の一部として開催されていたが、それらの大会は演説会や国権回復運動と強く結びついており、そういった背景からも、朝鮮の人たちが日本とのサッカーでの対戦に特別な思いを抱いていたことは想像に難くない。

 名前も、言葉も、宗教も、そして長い歴史の中で培われてきた文化さえも奪われた朝鮮の人々の屈辱は、いくら想像してみたところで簡単に理解できるものではない。支配する側と、支配される側との対戦は、いくらスポーツの世界とは言っても、複雑な思いが渦巻いていたはずだ。両国の間に不幸な歴史さえなかったら、純粋なライバルとしての関係を保ち、もっと違った形で切磋琢磨できたはずだと思うと言葉にならない。



 さて、朝鮮のサッカーの歴史を簡単に振り返ってみたいと思う。朝鮮にサッカーがやってきたのは1882年6月。港町である仁川にイギリスの軍艦フライングフィッシュ号が入港した際、その乗組員たちが退屈しのぎに埠頭でボールを蹴っていたが、彼らは上陸許可を取っていなかったために軍卒に終われ、ボールを置いたまま船に戻った。すると、そのボールを拾った子供たちが、船員の真似をしてボールを蹴って遊んだ。これが朝鮮におけるサッカーの始まりとされている。

 こうして朝鮮に伝わったサッカーを普及する役目を担ったのが、外国人教師や宣教師たちだった。外国語学校の教師たちは、休日や授業の合間を使って生徒たちにサッカーを教え、御殿通訳となった卒業生たちは、東大門の外側にあった訓練院(軍事訓練を行うところ)でボールを蹴ったと伝えられている。また、宣教師たちは、その布教活動の一環として学校を設立し、そこで生徒たちにサッカーを教えたそうだ。

 また、朝鮮において近代スポーツの発展に大きな貢献をしたとされるものにYMCAがある。中でも皇城基督教育青年会と大韓体育倶楽部の2団体の活動は活発で、皇城基督教育青年会は1905年6月9日に運動会を開催し、その競技種目にサッカーを取り入れた。この時、紅白戦のほかに、大韓体育倶楽部との試合も行われているが、この試合が朝鮮における対抗戦の始まりとされている。こうして各地へ普及していったサッカーは、やがて延世大学と高麗大学を中心に発展していくことになる。

 そして1920年7月13日、朝鮮民族による体育団体である朝鮮体育会が結成されると、各種スポーツ大会が企画されるようになり、1921年2月11日から3日間の日程で、全朝鮮蹴球大会が開催された。朝鮮一を決定するこの大会は中学団に7チーム、青年団には11チームが参加。まだ統一ルールが整理されていなかっため、トラブルが続出して優勝チームを決定できなかったが、これをきっかけにしてサッカーは急速に朝鮮半島に広がっていった。なお、朝鮮蹴球協会は1933年に設立されている。



 互いに順調にサッカーを普及させていった日本と朝鮮。そうした流れの中で、1926年4月に大阪サッカー倶楽部が朝鮮体育協会に招かれて、朝鮮半島で2試合の親善試合を行った。ただし、朝鮮体育協会は日本人主導で組織された団体。大日本体育協会の朝鮮支部でもあり、前述の朝鮮民族による組織である朝鮮体育会とは別の組織であった。大阪サッカー倶楽部は第1戦の延禧専門との対戦を1−1で引き分け、続く朝鮮蹴球団には1−3で完敗した。ちなみに、大阪サッカー倶楽部は、この年の明治神宮大会で優勝を飾っている。

 その半年後の10月。今度は日本が朝鮮を招いて試合を行った。日本にやって来たのは、前年に行われた第6回全朝鮮蹴球大会の優勝チームである朝鮮蹴球団。第1戦は10月19日、明治神宮競技場(現在の国立競技場)で東京高等師範が迎え撃った。試合は、東京高師が、終始、朝鮮蹴球団に押されるという展開。東京高等師範は前半24分と後半8分に金允基にゴールを奪われると、後半33分に1点を返すのが精一杯だった。当時の様子を東京朝日新聞は次のように報じている。
 
「噂にたがわず、朝鮮蹴球団は強豪ぶりを発揮して東都の雄東京高師を破った。試合はほとんど朝鮮蹴球団の攻撃に終始。後半に至っては東京高師を最後までハーフライン以内に押し込めており、まさに朝鮮蹴球団の強さを印象づけていた。何よりも朝鮮蹴球団は個人技に優れている。球さばきがうまく、キック力も強い。チームワークも決して悪くない。バックス陣が送るロングパスは確実にフォワードに渡り、フォワード陣も完全なコンビネーションでゴールを攻めていた。ただし、朝鮮蹴球団の欠点を一つあげれば、それはシュートに確実性が無かったことだろう。あれだけのチャンスがありながら、わずか2点に終わったのは、シュートの確実性を証明するもの。東京高師の得たゴールキックは31にものぼる。これは、不用意にポンポンとロングシュートを放った朝鮮蹴球団の軽率さを示すものである」(1926年10月20日付 東京朝日新聞)
   
 この記事は写真付きで掲載されており、注目度が高い試合であったことが窺える。それにしても文面からは、朝鮮蹴球団が相当強かった様子がありありと伝わってくる。朝鮮蹴球団の欠点として、敢えてシュートの確実性のなさをあげているが、それも負け惜しみにしか聞こえない。事実、全般的な内容としては、朝鮮蹴球団の圧勝を報じている。なお、朝鮮蹴球団は、翌日には早大と対戦したが、その強さが評判を呼んで、日本人はもちろん、大勢の日本に住む朝鮮の人たちが明治神宮競技場に駆けつけた。



 試合は双方一歩も引かない好ゲームとなった。当時の東京朝日新聞も、この試合の模様を「東都空前の好試合。観衆の多数のエキサイトぶりは、東京において初めて見る光景であった」と報じている。先制点は朝鮮。前半27分に早大のオウンゴールによるものだった。一方の早稲田は後半18分に玉井が決めて同点。その後も、互いに攻めも攻めたり、守りも守ったり。結局、1−1のままタイムアップのホイッスルを聞くことになった。

 とにかく白熱したゲームだった。スピードとフィジカルに優る朝鮮は、開始直後から怒涛の攻撃を展開。得意のロングキックを多用して早稲田をゴール前に押し込める。一方の早稲田は、堅い守備で朝鮮の攻撃を守り抜くと、パスをつなぐ組織プレーで反撃を開始。朝鮮蹴球団のゴールを狙う。互いに好機を作り出す白熱した展開が続く。そして、決定的なピンチには、早稲田の本田、朝鮮蹴球団の金永熙の両GKがファインセーブを連発。互いに一歩も引かなかった。

 スピードとキック力なら朝鮮蹴球団。さらに個人技とフィジカルでも上回り、1対1の奪い合いでは朝鮮蹴球団に軍配が上がった。しかし、組織力と戦術眼なら早大が1枚上手。朝鮮蹴球団の一瞬の隙を突いてチャンスを作り出していた。互いに持ち味を余すところなく発揮し、真正面からぶつかり合った試合を観客は十分に堪能したことだろう。この翌日、朝鮮蹴球団は休むことなく東京帝大と対戦。この試合も1−1で引き分けている。

 この後、朝鮮蹴球団は茨城県、広島県を回って試合を行い、5勝3分の結果を残して朝鮮半島に帰っていった。連戦が続くスケジュールの中での好成績に、当時の朝鮮の各新聞は揃って朝鮮蹴球団をたたえる記事を掲載。東亜日報も、「朝鮮蹴球団が東京に行っている間、留学生をはじめとする同胞たちがスタンドを埋め、熱烈に応援した。特に早大との第2戦は、スタンドが潰れるくらい観衆が集まった」と報じている。

※韓国の国名については、日本の植民地時代は「朝鮮」と表記した。
敬称略
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