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 日本サッカーの歴史 03/09/29 (月) <前へ次へindexへ>

 日本と韓国のサッカー 吹き荒れる朝鮮旋風


 文/中倉一志
 1920年代半ばに始まった朝鮮とのサッカー交流は、その後も引き続き盛んに行われた。朝鮮蹴球団の来日から半年後の1927年4月には、今度は広島の鯉城蹴球団がソウルに遠征し親善試合を行っている。鯉城蹴球団とは、広島一中の現役とOBによって編成されたチームで、全日本選手権大会では、第4回大会(1924年)から3大会連続で決勝戦に進出し(第6回大会は大正天皇崩御のため中止)、第4回、第5回と2連覇を飾った強豪チーム。より強い相手を求めての朝鮮への遠征だった。

 初戦の相手は朝鮮蹴球団。前年に朝鮮蹴球団が日本に訪れた際には0−2で敗れていたが、これを接戦の末3−2で勝利。しかし、第2戦の相手である延禧専門に2−3で敗れ、最終戦で再び戦った朝鮮蹴球団には1−6と完敗した。また9月には第8回極東選手権に参加した代表チームが、大会終了後に朝鮮で4試合を行っているが、初戦の崇実専門には3−2で勝利したものの、続く戉午蹴球団とは4−4の引き分け。延禧専門、朝鮮蹴球団との対戦では、0−4、1−3と、それぞれ敗れている。

 1926年に始まった朝鮮半島のチームと戦った日本チームは、どのチームも当時の日本を代表するチームばかり。しかし、対戦結果では圧倒的に韓国がリードした。その理由のひとつは、日本の支配下に置かれていた朝鮮民族が、民族の誇りをかけて戦ったからだとされているが、それ以前に、日本と朝鮮のサッカーの実力には大きな差があったようだ。朝鮮のサッカーは、ロングボールとスピードを生かしたフィジカル重視のサッカーだったと伝えられているが、日本は朝鮮のフィジカルに太刀打ちできなかった。また、個々の技術にも明らかな差があったようだ。

 1928年には、関東大学リーグ1部昇格を決めた明治大学が、大学の単独チームとして初めて朝鮮遠征を行ったが5戦して全敗。それどころか1ゴールも奪えないという完敗だった。その後も早稲田大学などを中心に、様々なチームが朝鮮得の遠征を行ったが、やはり、朝鮮サッカーにはかなわなかったようだ。



 さて、朝鮮のチームが日本の公式大会に初めて顔を見せたのは、1926年の第9回全国中等学校蹴球大会。前年度に中学の部を独立させた日本フートボール大会は、この大会から名称を全国中等学校選手権と改め、全国8ブロックによる予選制度を導入したが、ブロックのひとつに朝鮮地区が加わったことによるものだった。予選を勝ち抜いた培材高普は1回戦で御影師範と対戦。結果は0−3での敗退だったが、その戦い振りは朝鮮の実力の片鱗を感じさせた。「高校サッカー60年史」では、培材高普について次のようなコメントを寄せている。

「本大会の一大掘出物である。ラグビーの南満とともに力量未知数のものとして期待されていたが、期待を裏切らず御影に善戦した。偉大な体躯とうなりを生ずるシュート、猛烈なタックル、いずれも内地チームに見られない底力をもっていた。ただ個人技は第一であろうが全くコンビネーションにかけていた。もしHBとFWとの連絡、FW同士の連絡について研究するならば最強となろう。」

 そして、翌第10回大会(1927年)で、この予言はピタリと当たることになる。朝鮮代表として出場した平壌崇実は1回戦で対戦した京都師範を11-0という驚異的なスコアで破ると、続く準決勝では東京付中を6−0で下し、難なく決勝戦まで駒を進めてきたのだ。迎え撃つのは広島一中。こちらも1回戦で対戦した富山師範を14-0、準決勝では郡島工を6−0と、圧倒的な攻撃力を見せつけて決勝に進出してきた。ともに他を圧する実力者同士の対戦。決勝戦は好ゲームが期待された。

 しかし、ここでも強さを見せつけたのは平壌崇実だった。広島一中のミスを見逃さずにチャンスに結び付けてゴールをゲット。終わってみれば、決勝戦をも6−0で圧勝した。フィジカルコンタクトをいとわないプレー振りは、ややもするとラフな感じがしなかったわけでもないが、フィジカル、個人技はもちろん、キック、走力、パスの正確さと三拍子揃った洗練されたチームであった。「彗星の如き朝鮮軍の猛威」(高校サッカー60年史)により、優勝旗は初めて玄海灘を渡ることになった。



 続く第11回大会(1929年)でも朝鮮サッカーは、改めてその強さを証明して見せた。朝鮮代表の平壌高は1回戦で広島一中を4−3の接戦で下すと、続く準決勝では明星商を4−0で下して、朝鮮代表チームとして2大会連続の決勝戦進出を決めた。決勝戦で待ち受けるのは優勝候補の御影師範。過去10回を数える歴史の中で第1回大会から7連覇を達成、通算で8回の優勝を飾っている関西の雄だ。そして、決勝戦は互いの実力を出し尽くした大激戦になった。

 朝鮮のチームらしくロングキックと個人技で日本を上回る平壌高は、前半を終わって3−2と1点をリード。一度は御影師範が同点に追いついたが、平壌高は更に1点を加えて再びリードを奪った。しかし、御影師範はここから底力を発揮。再び同点に追いついて、遂に試合を延長戦に持ち込んだ。2度の窮地を凌いだ御影師範は延長に入ると攻勢に転じて2点をゲット。平壌高の反撃を1点に押さえて2年ぶり9回目の優勝を飾った。

 惜しくも決勝戦で敗れたとは言え、やはり、朝鮮代表チームはさすがの強さを誇っていた。日本とは異なったリズムで戦う朝鮮のサッカーは日本を大いに苦しめたようだ。ちなみに、平壌高については、下記のような論評が寄せられている。

「平壌はキックおよび球の扱い方には内地と違った長所もあり、一方、短所もあった。試合態度は立派であった。ただ球を奪い合うとき手を使ったり無理なプレーが多かったのは反省せねばならぬ。作戦上の短所は、折角長蹴(ロングキックの意)を持ちながら、その目標が妥当でないこと。FWが球をもて遊びすぎてシュートの遅いことである。」(高校サッカー60年史)

 それにしても、20年代半ばからの朝鮮と日本の戦い方を見ると、韓国はロングキックと走力、そして、日本を上回るフィジカルを武器に戦い、日本はショートパスをつないで組織力でゴールを目指していたことが窺える。既に70年以上も前の出来事であるが、その戦い振りは、現在の日本代表と韓国代表の試合の内容と基本的には変わらない。国それぞれにサッカーのスタイルがあり、それは国民性や文化を色濃く反映していると言われるが、中々、興味深い事実でもある。



 この第10回大会を最後に、朝鮮のチームはしばらく日本の公式戦から姿を消している。その理由は定かではないが、とにもかくにも、朝鮮のサッカーの実力は、当時の日本サッカー関係者にとっては脅威に映ったに違いない。外国人によりサッカーがもたらされ、そして、チョウ・ディンの教えよって、そのスタイルを確立しつつあった日本サッカーにとって、スタイルの違う朝鮮のサッカーは、大いに刺激になったはずだ。

 朝鮮のサッカーが日本サッカー会に再び姿を現すのは、第15回(1935年)全日本選手権大会。そして、全国中等学校選手権には第20回大会(1938年)に崇仁商が参加している。その後、不幸な戦争がはじまるまでの間、朝鮮のサッカーは日本サッカー界に旋風を巻き起こし、再び、その強さを発揮することになる。ただ、返す返すも残念なことは、朝鮮とのサッカー交流は、日本が朝鮮を植民地として支配下に置いていたという、極めて異常な中での対戦であったことだ。

 先週から2回にわたるレポートの中では、敢えてサッカー交流という言葉を使ったが、正確には交流という言葉では言い表せないような戦いだったように思う。選手たちは純粋にボールを追いかけていたのだと信じたいが、そこには、支配する側と、支配される側の不幸な歴史が介在していたことも事実。それぞれに複雑な感情が入り混じっていたことだろう。2002年FIFAワールドカップTMまで100日を切ったいま、あらためて、この大会が、過去の不幸な歴史を払拭する一つのきっかけになってくれることを願わずに入られない。

※韓国の国名については、日本の植民地時代は「朝鮮」と表記した。
敬称略
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