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日本サッカーの歴史 03/10/06 (月) | <前へ|次へ|indexへ> |
初の国際タイトル 第9回極東選手権大会 文/中倉一志 |
初期の旧制高校による「全国高等学校ア式蹴球大会」で鍛え上げられた選手たちが大学に進学するようになると、日本のサッカーは大学を中心に回るようになっていく。野津謙の「帝大を強くするためには官立の高校を強くすればいい」という発想から生まれた「全国高等学校(旧制)ア式蹴球大会」は、その狙い通り、大学サッカー界への選手の供給源として機能し、そして、中学(旧制)卒業後、高校・大学と6年間に渡ってスポーツに専念できるという環境は選手の実力を飛躍的に向上させた。
さて、そうした背景の下、大日本蹴球協会は、東京で行われる第9回極東選手権大会(1930年)に向けての代表強化について議論を重ねていった。そして、その議論の中心になったのがピックアップチーム編成の可能性についてであった。今でこそ、異なったチームから選手を選出して代表チームを編成するのは当たり前だが、当時はピックアップチームの編成には否定的な意見が大半で、単独チームを代表チームとして国際試合に派遣していた。
現在のように、組織立った強化が行われていなかった時代では、各チームから選抜した選手たちを集めて合宿をする機会も少なく、チームとしての戦術理解度を上げることが出来なかったことが、その大きな理由になっていると思われる。事実、当時を記す文献によれば、ピックアップチームの最大の欠点としてコンビネーションが整わないことを上げているものが多い。こうした限られた状況の中では、ある意味、当然の考えでもあった。
また、初めて参加した第3回極東選手権では、代表チーム決定の予選を望む声が関西を中心に上がる中、無予選で東京高等師範を代表チームとして派遣。その結果、思いもよらぬ惨敗を喫したことで、多くの関係者からの批判を浴びることになり、以後は代表決定予選を実施し、優勝チームに数人の補強選手を加えて代表チームを編成していた。しかし、地元日本で開催される大会に、どう備えるべきかという議論の中で、協会主体のピックアップチームを編成し、無予選で派遣する可能性を探る声が出たのだった。
大日本蹴球協会は、1928年3月30日、4月1日に行われた蹴球研究会にて、ピックアップチームの可能性を議論。翌1929年7月17日の理事会以降、その実現について具体的な話し合いがもたれるようになっていく。その後、大日本蹴球協会は準備委員会を設置して、代表チーム決定問題について検討されることとなった。これは、かつて、第7回大会(1925年)の代表決定予選会に、秘密裏にピックアップチームを編成して出場した広島黒猫というチームの誕生の経緯について批判が噴出したことから、決定までの経緯を明らかにするという配慮でもあった。
最終的に、実行委員会はピックアップチームを編成し無予選で大会に派遣することを決定。東西から下記の19名を代表候補選手として選出した。全員が大学のチームに所属する選手たちだった。その理由について竹腰重丸は、組織力という点では大学のチームが他を抜きん出ていること、技術的に中国・フィリピンに優るとは言い切れず、組織の持つ強さで対抗することが、日本にとって最も重要であったことを挙げている。
(代表候補選手:*印の選手が最終的に代表選手として派遣された)
*阿部鵬二、*市橋時蔵、*井出多米夫、大町篤、岸山義夫、近藤台五郎、
*後藤靭雄、*斎藤才三、*篠島英雄、*杉村正三郎、*高山忠雄、*竹内悌三、
*竹腰重丸、*手島志朗、西村清、*野澤正雄、*春山泰雄、*本田長康、
*若林竹雄
また、予選会を行わない理由について、竹腰重丸は、予選会を実施下場合、それを勝ち抜くことに重点が置かれてしまい、組織的なサッカーが十分に構築されない危険性があること、互いの意思疎通が十分に発揮できず、その能力をフルに発揮できないこと、指摘される練習不足については、代表チームとしての責任の重さを十分に感じており合宿でカバーできること等を挙げている。
日本で初めて編成されたピックアップチームは、まずは東京在住のメンバーが、2月中に週3回の合同練習を実施。3月25日からは関西在住の選手も合流し、5月末の大会までに2回に渡る合計40日間の合宿を行いチーム強化を図った。その練習内容は極めてハードなものであった。その模様を竹腰重丸は次のように語っている。「全体の強みを増す上にはかなり有益であったと確信する。練習方法を科学的にやることとは必ずしも一致せず、あるいは逆方向の練習であったかもしれないが、それを経過することは体力とは離れた精神的な強みを加える所以であると考えられたからである」(アサヒスポーツ)。
さて、万全の準備を積んで迎えた第9回極東選手権大会。サッカー競技は、1930年5月25日、日本対フィリピンの試合で幕を開けた。この試合で日本はフィリピンを圧倒。前半を終えて5−2と試合を決めると、後半にも2点を追加して7−2でフィリピンを一蹴した。フィリピンのカルウオ監督は「個人技ではスコアほどの開きはないが、日本はチームワークで勝っていた」とコメント。日本の組織力が大きくフィリピンを上回った試合だった。
そして5月29日、日本は優勝をかけて中国と対戦した。中国も初戦でフィリピンを5−0と一蹴。この大会では得失点差で順位をつけるというルールかなかったため、勝った方が優勝を決めるという大事な対戦となった。日本が国際大会初タイトル獲得に王手をかけたということもあって神宮競技場のスタンドは超満員。そして試合は、日本がリードを奪えば中国も負けじと追いつくという、手に汗握る大接戦となった。
ショートパスをつないで組織力を活かして戦う日本。高い技術とパワーを活かして応戦する中国。互いの特徴を活かした全く互角の展開が続いていく。そんな中、先制点が日本に生まれた。時間は32分。FB(フルバック)の竹内が中国ボールを奪って左へ展開。ボールを受けた春山からのクロスボールにDF手島が合わせて中国ゴールネットを揺らしたのだ。しかし、中国もすかさず反撃。CF載がドリブル突破からシュートを決めて、すかさず同点。前半は1−1で終了した。
勝負をかけた後半、日本は高山のシュートのこぼれ球を手島が押し込んで再びリード。しかし、中国も一歩も引く気配は見せない。左からのクロスにCF載が合わせて再び同点に追いつく。そして72分、日本は、竹腰、高山とヘディングでつなぎ、その落としたボールをゴール前に飛び込んできた篠島が決めて中国を突き放しにかかったが、中国は、CF載がハットトリックを達成する3点目をゲット。またもや振り出しに戻した。その後、両チームとも勝利のゴール目指して激しくぶつかり合ったが、試合は3−3のまま終了のホイッスルを聞いた。
組織力で中国を上回った日本。高い技術とパワーで一歩も引かない戦い振りを見せた中国。両者とも死力を尽くした戦いは優勝決定戦にふさわしいものであった。日本側には、試合後、動けなくなってしまった選手もいたほどだった。試合終了後、大会本部は再試合による優勝決定戦を提案したが、これを中国側が拒否。その結果、両国優勝ということで第9回極東選手権大会の幕は閉じた。日本にとっては、これが国際大会初タイトル。蹴球協会が出来てから9年目の出来事だった。当時の新聞の記事を「日本サッカーのあゆみ」は次のように紹介している。
「実に行き詰まるような肉弾戦で、最後の瞬間まで勝敗がわからなかった。おそらくこれほどのゲームは、いまだかって極東では見られなかったであろう。中国も強さを示し、力いっぱい戦ってはいたが、あまり強チームにあったことがないと見え、幾分面食らった形で、大分凡失を繰り返し、例のスタンドプレーを見せるどころの騒ぎではなかった。しかし、老練味と試合慣れとにより、幾分の余裕を見せて、鮮やかな得点を示していたが、シュートにいつもの正確性を欠いていたのは、よほど焦って周章狼狽したためであろう」
「中国のウィングフォワードの強さは、日本軍のハーフ、およびフルバックをかなり苦しめた。こうした強力なウィングに対する防戦法も、今後の研究に待つものが多いと信ずる。このゲームに、中国の両ウィングより攻め入る一手ですごぶるシンプルであったが、日本は千変万化のシステムをもってこれに対し、その得点はすごぶる合理的なものがあったと思う。要するに、日中戦は中国の技術と日本の理論との試合であって、引き分けの記録よりしても、今後、相当にその短所を補うべく、多いに参考になったものがあろう」
チョウ・ディンによる全国巡回指導による高校(旧制)年代の強化。その教えを受け継いで、さらに組織的なサッカーを追求した高校・大学サッカー。それらの成果が現れた大会であった。また、ピックアップチームを編成したとは言え、最終的にはメンバーの殆どが東京帝大で占められたことも、組織サッカーを目指す日本にとっては有利に働いた。念願かなって極東チャンピオンの座を手に入れた日本は、次の目標を国際五輪に合わせて活動していくことになる。
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