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 日本サッカーの歴史 03/10/13 (月) <前へ次へindexへ>

 日本サッカー界を牽引する大学サッカー


 文/中倉一志
 極東選手権大会の優勝でいよいよ国際五輪での活躍を目指すことになった日本のサッカー界。元々、日本の近代スポーツは国際五輪を目指す中で発展してきたという経緯があり、そういう意味では、日本サッカー界もようやく世界の舞台に向けてスタートを切ったと言える。日本が第9回極東選手権で優勝を飾ってから45日後、地球の裏側・ウルグアイでは第1回ワールドカップが開かれたが、国際五輪至上主義の日本にとっては、それはあくまでも遠い異国の出来事の一つに過ぎなかった。

 さて、この後、日本サッカー界はベルリン五輪に参加し、「ベルリンの奇跡」と語り継がれる試合をやってのけるのだが、そのベルリン五輪での戦いに触れる前に、当時の日本国内のサッカー事情について触れておきたいと思う。日本に近代スポーツが伝えられて以来、あらゆる近代スポーツは学校教育の中で発達し、サッカーもまた同様の発達の歴史をたどってきた。そして、すでに紹介の通り、その中心を担ったのが大学のチームだった。

 創世記においては、高等師範・師範学校のOBチームや、旧制中学のOBによるチームを中心に発展していった日本サッカー界であったが、旧制中学や旧制高校で活躍した選手たちが大学へ進学し始める頃になると、当然のように大学が日本サッカー界が隆盛を迎えることとなる。そして、その中心となったのが、東京帝大(以下帝大)、早稲田大学(以下早大)、慶応大学(以下慶大)の3校だった。中でも、竹腰、小畠、若林、高山忠、鈴木、手島、野沢など、師範、旧制高校、中学で活躍した選手を要した帝大の実力は群を抜いていた。

 第3回(1926年)東京コレッジリーグを、4勝1分、13得点2失点という圧倒的な成績で制した帝大は、その後も他の追随を許さず、東京コレッジリーグで6連覇を達成。何より、その勝ちっぷりが凄かった。各シーズンとも1試合平均失点は1点以下。得点に至っては1試合平均3得点以上を挙げたばかりか、第5回(1928年)、第6回(1929年)のリーグ戦では平均6得点以上を記録。6連覇を飾った第8回(1931年)でも平均で5得点以上を挙げている。



 その帝大の黄金期も6連覇を最後に終わり、代わって関東コレッジリーグの主役に躍り出たのが早慶両大学だった。まずは、帝大に代わって歴史に名を残したのは慶大。第9回(1932年)リーグ戦で、慶大3勝1分、帝大3勝1敗で迎えた最終節で両校は対戦。この時点で既に早大が4勝1分の成績で全日程を終了していたが、慶大は帝大を5−0と一蹴して早大に並ぶと、第1位決定戦でも早大を5−2で圧倒。念願の初優勝を飾った。

 しかし、早大も着々と力を蓄えていた。1931年には川本、堀江、鈴木、平松、名取らが大学予科に入学。翌年には佐野、加茂(兄)、さらに1933年には野沢、笹野、加茂(弟)、西邑らが入学し、この年に5戦全勝で初優勝を飾ると、1934年に不破が入学し、これらの選手が中心になって4連覇を達成した。その後、今度は慶応が4連覇を飾る等、戦前は早慶が激しいデッドヒートを繰り広げながら関東の大学リーグを牽引していった。

 一方、関西大学サッカー界では、関学と京大を中心に熱戦が展開されていたが、1929年のリーグ戦終了後に新聞社の後援により、東西のリーグ戦優勝チームによる対抗戦が決定。同年12月25日に東京の神宮競技場で第1回東西学生蹴球対抗決定戦が開催されている。しかし、帝大、慶大、早大の実力は関西をも上回っており、戦前の成績をみると、関西が勝利を挙げたのは第10回大会(1938年)の1回のみ。引き分けで両校優勝となった第3回大会(1931年)を含めても2度だけの優勝に終わっている。

 ところで、好景気に支えられた1960年代以降、企業スポーツが全盛だったこともあるが、バブルが弾け、不景気が長期化している今では、社会人となった後に選手生活を続けることは困難なことになっている。しかし、当時は、いま以上に環境が厳しく、卒業後も第一線のプレーヤーとして活躍を続けるというのは考えられないことだった。その結果、隆盛を極めた大学サッカー界は、そのまま日本サッカー界を牽引する存在となったのだった。



 このことは、全日本選手権の歴代優勝チームにも顕著に現れている。創世記の頃、優勝チームとして名を刻んでいるのは、高等師範・師範学校のOBチーム、もしくは旧制中学のOBチームに限られているが、第8回大会(1928年)に早大WMW(ワセダ・マリーン&ホワイト、えび茶と白の意)が優勝を飾ると、その後は大学と、そのOBからなるチームが長きにわたって全日本選手権のタイトルを独占する。社会人のチームが優勝チームに名を刻むには1960年まで待たなければならなかった。

 前述のように、当時の情勢では選手たちが大学を卒業後もサッカーを続けられるという環境が整っておらず、全日本選手権と言っても地方から強いチームが現れることは事実上無理であった。そういう状況下では、このように大学のチームが優勝を独占するのは当然のことであり、次第に、全日本選手権で優勝することよりも、強豪同士のリーグ戦で優勝を争う大学リーグの方が価値が高いと考えられるようになっていった。

 やがて、大学は全日本選手権にはOBと学生の混成チームを送るようになり、中には、大学のリーグ戦にベストメンバーで臨み、全日本選手権にはリーグ戦で出場機会の少ない選手を出場させる大学も現れた。日本の中でレベルの高い大会といえば大学リーグであり、その東西の優勝チームで争う東西対抗戦こそが、日本一を決定する大会であるとの認識が高まっていったのは、ある意味では当然の流れだったのかもしれない。

 また、第10回極東選手権の代表メンバー選考を目的として、大日本蹴球協会は、学生・OBを含めた全関東、全関西による東西対抗戦を1932年2月に開催した。この大会は、その後も毎年行われるようになったが、単なるオールスター戦のようなイベントではなく、出場選手をセレクションで決定し、さらには、この試合で活躍することが代表選手への道へ繋がるとあって、その中身は非常に濃いものであった。そして、この大会も、やがて全日本選手権よりも価値のある大会として認知されていった。



 このように、当時の日本にはビッグイベントと呼べる大会が、全日本選手権、東西対抗戦、東西学生蹴球対抗決定戦、そして、関東大学・関西大学の両リーグが存在していたわけだが、結果的に、実力で日本サッカー界を牽引していた大学リーグと、関東・関西両大学リーグの中心選手たちによって争われる東西対抗戦のほうが、全日本選手権よりも高い位置に置かれていたことは事実だろう。それほど、社会人と比較すると学生の力は群を抜いていた。

 当然のことながら、日本代表チームは学生を中心に組織されることになっていく。それはそれで、当時の情勢から考えれば当然のことなのであるが、やや不明確になりつつあった全日本選手権の位置づけや、それに加えて大日本蹴球協会(関東)と、関西蹴球協会との対立もあって、ベルリン五輪代表選手選考時にひと騒動起こることになる。その顛末については、またの機会に紹介したいと思う。
敬称略
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