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 日本サッカーの歴史 03/10/20 (月) <前へ次へindexへ>

 再び吹き荒れる朝鮮サッカー旋風 その1


 文/中倉一志
 1920年代後半に、その実力の高さを見せつけた朝鮮半島のサッカー。その後、第11回全国中等学校蹴球球大会(1929年)への参加を最後に日本国内における公式大会には姿を見せなかったが、それから6年後の第1回全日本総合選手権(1935年)に京城蹴球団が参加。以後、再び日本に、その実力を見せつけることになった。なお、日本一を決定する公式大会に朝鮮半島のチームが参加するのは初めてのことだった。

 この全日本総合選手権とは、翌年にベルリン五輪を控えていた大日本蹴球協会が、その強化策の一環として設立した大会で、「試合数を増やして日本サッカー界を強化すること」を目的としたもの。大会趣意書によれば、「門戸を開放せず、強力チームに参加を呼びかけた」とされている。この大会の設立の趣旨から言って、ベルリン五輪代表の選考に重要な意味を持つと考えた朝鮮は、五輪出場を目指して大会に参加したのであった。

 決勝大会は、北大(北海道代表)、仙台サッカークラブ(東北代表)、東京文理大(関東代表)、関大クラブ(関西代表)、名古屋高商業(当会代表)、京城蹴球団(朝鮮代表)の6チームの参加で行われた。そして、準決勝から登場した京城蹴球団は、初戦となった名古屋高商との対戦で、いきなり大爆発。フィジカル、スピード、技術とすべての面で名古屋高商を圧倒。付け入る隙を全く与えないまま6−0で一蹴し決勝戦に駒を進めた。

 一方、決勝戦で京城蹴球団を迎え撃つことになったのは関東代表の東京文理大(以下、文理大)。1回戦で北海道大学を4−2、続く準決勝では関大クラブを3−0で下しての決勝戦進出だった。スコアの上では危なげなく勝ち進んできた文理大だったが、LWの選手を固定できず、またLBのポジションにも問題を抱え、ややムラのあるチームであった。しかし、そうは言っても激戦区の関東を勝ち抜いたチーム。決勝戦は好ゲームが期待された。



 しかし、京城蹴球団の強さは群を抜いていた。前述のように、左のラインに問題を抱える文理大に対し、京城蹴球団はすべてのポジションに好選手を配置。フィジカルとスピード、そして正確なロングフィードを武器に文理大を圧倒した。先制点を奪われた文理大は、なんとか1−1の同点に追いついたが頑張りもそこまで。その後、2点を奪ってリードを広げた京城蹴球団はすべての面で文理大を圧倒。前半30分を過ぎた辺りで、もはや文理大の勝利の可能性は消えていた。

 後半に入っても攻撃の手を緩めない京城蹴球団は、わずか10分の間に3得点を追加。そのあとは、あえて攻めようとせずに余裕を持って初優勝を飾った。何とか反撃を試みたい文理大は、残り15分となったところで最後の力を振り絞って攻撃を開始したが、京城蹴球団の守備は全く乱れずゴールを奪うことはできなかった。結局スコアは6−1。京城蹴球団の強さばかりが目立った大会となった。

 初めて全日本総合選手権のタイトルを獲得した京城蹴球団は、平壌蹴球団から補強選手を加え、同年秋に行われた第8回明治神宮体育大会にも参加。この大会でもその実力を発揮した京城蹴球団は順調に決勝戦へ進出。そして、同じく優勝候補と見られていた慶応BRBと優勝をかけて対戦した。しかし、ここでも京城蹴球団は慶応BRBを寄せ付けなかった。慶応BRBの隙を突いて先制点を挙げると、後半にはPKで2点目をゲット。慶応BRBに好機を与えず優勝を飾った。

 フィジカルとスピードに物を言わせ、正確なロングキック戦法で日本サッカー界を制した京城蹴球団。日本代表監督経験者で、当時のスポーツ記者として第一人者であった山田午郎は、朝鮮のサッカーを、ロングキックに頼る単調な攻撃で互いの連携がないこと、ゴール前での正確性に欠けること、ラフなプレーが多いこと等を指摘。必ずしも朝鮮のサッカーがナンバーワンとは言い切れないとアサヒスポーツに論評を寄せているが、朝鮮サッカーが日本のそれを上回っていたことは事実だった。



 翌年の第2回全日本総合選手権には普成専門が参加。前評判通りに決勝戦に進出した。決勝戦では慶応BRBの前に2−3で敗れたが、朝鮮サッカーの実力が本物であることを日本サッカー界に示した。その後、全日本総合選手権ではこれといった成績を残していないが、これは最強チームを明治神宮体育大会に派遣し、全日本総合選手権には学生主体のチームで臨んだからのこと。そして、明治神宮体育大会で朝鮮サッカーは圧倒的な強さを発揮することになる。

 第9回大会(1937年)に出場した清津蹴球団は、決勝戦で早稲田大の前に1−2で敗れたが、その内容は全くの互角。そして雪辱を期して臨んだ第10回大会(1939年)では、咸興蹴球団が、3試合を戦って16得点1失点という圧倒的な強さで優勝を飾った。決勝戦を戦った二宮洋一は「「あの試合は完璧にやられました。わざと攻めさせておいて逆襲に出てくるんだよな。そこまで見透かされていたわけですよ。延禧専門や普成専門なんかと比べても、あたりも一段と強かったし、手も足も出なかった」と脱帽している。

 さらに第11回大会(1939年)では連続出場を果たした咸興蹴球団が再び旋風を巻き起こす。決勝戦までの3試合を14得点無失点で勝ち抜き、決勝戦で対戦した扶養クラブをも6−0で下した。扶養クラブとは、川本泰三が中心となって、早稲田大、明治大、豊島師範、青山師範等のOBを集めたチーム。サッカー名門校出身者で編成した強豪チームであったが、そのチームさえも全く寄せ付けなかった。

 そして迎えた第12回大会(1941年)は出場資格が企業単位に変更されたことから、朝鮮半島からは日本穀物産業が参加。1回戦では台湾交通を4−0、続く準決勝では名古屋三菱を2−0で下して、またもや決勝戦に進出。決勝では日立製作所と対戦した。ショートパスをつなぐ組織サッカーと、正確なロングキックとパワーで押すキック&ラッシュサッカーのぶつかり合いは序盤から激しい攻防が続く大熱戦。しかし、残り5分となったところで日本穀物産業が決勝点をゲット。3−2で優勝を飾った。



 翌1942年からは太平洋戦争のため全ての大会は中止され、終戦とともに日本の支配下から解放されることになるため、朝鮮のチームが日本の大会に出場したのは第12回大会が最後になった。しかしながら、全日本総合選手権で優勝、準優勝ともに1回。明治神宮体育大会では5回出場して全ての大会で決商戦に進出し、4回の優勝を遂げるというこれ以上ない成績を収めた朝鮮のチームは、間違いなく日本サッカーの歴史に名を残したチームだった。

 この時期、日本には日本一を決定する大会が2つあったわけだが、日本サッカー界の歴史の中では、全日本総合選手権を日本選手権として認定しており、明治神宮体育大会の記録は広く一般の目にとまることはない。明治神宮体育大会の設立の経緯がそうさせているものと思われるが、「天皇陛下に奉納する総合スポーツ大会」として開催され、「明治天皇の聖徳を憬仰し、国民の心身の鍛練、精神の作興に資す」ことを目的として行われていたこの大会は、当時は日本中の注目を集める大会であった。

 当時の日本サッカー界の中心が大学であり、多くの選手が大学リーグに力を注いでいたことから、必ずしも日本一を決定する大会の権威が一番高いとは言い切れなかった部分もあるが、だからといって朝鮮のサッカーの実力が否定される理由はどこにもない。残念なのは、日本が朝鮮を支配下に置いていたという不幸な歴史により、当時の朝鮮サッカーの活躍が歴史の表舞台から消えてしまっていることだ。対等な民族同士の戦いができていれば、また違った展開があったことだろう。

 それにしても興味深いのは、フィジカルとパワーを前面に打ち出し、ロングキック中心のサッカーを展開する韓国と、ショートパスをつないで組織的に攻守を組み立てる日本という図式が、今から60年以上も前から続いているという事実だ。サッカーは国民性を反映すると言われているが、技術の向上とともに細かな戦術は変っても、基本的に部分では変らないところを見ると、サッカーというスポーツの奥深さを感じずにはいられない。

※韓国の国名については、日本の植民地時代は「朝鮮」と表記した。
敬称略
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