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日本サッカーの歴史 03/10/27 (月) | <前へ|次へ|indexへ> |
再び吹き荒れる朝鮮サッカー旋風 その2 文/中倉一志 |
1930年代中盤以降、朝鮮半島のチームは日本の大会に旋風を巻き起こしたわけだが、その強さは一般の部だけではなく中等選手権にも及んだ。第10回大会(1928年)で平壌崇実が優勝、翌第11回大会でも平壌高が準優勝を果たして一躍その実力を知らしめた朝鮮は、その後、中等選手権には参加していなかったが、第20回大会(1938年)から2地方予選区(朝鮮・台湾)が増加されたため、再び中等選手権に登場。その実力を遺憾なく発揮した。
朝鮮代表として参加した崇仁商は1回戦で函館商を2−1、2回戦では埼玉師範を2−0で破って準決勝に進出。そして、この大会で圧倒的な優勝候補とされていた神戸一中と対戦した。神戸一中は同大会でここまで4回の優勝を経験し、この年も予選から無失点を続けているという強豪だった。しかし、フィジカルとスピードで圧倒的に上回る崇仁商は、前後半を通して神戸一中を自陣内に押し込めて一方的に試合を進めた。
ただ残念だったのはチームそのものが荒削りであったこと。一方的に攻めながらもゴールが奪えなかった。結局、ショートパスをつないでゲームを組み立てる神戸一中が数少ない得点機を確実に生かして2−0で勝利。崇仁商は準決勝で涙を飲むことになった。しかし、その実力は前評判通り。予選を通じて無失点で優勝を遂げた神戸一中の水沢淳也も「ボールを蹴って50年(神中クラブ50年史)」の中で、「個々の試合に就いての記憶は薄れてしまったが、いまも憶えているのは朝鮮代表崇仁商との準決勝である。それは全く苦しい試合であった」と当時の様子を振り返っている。
また、その前評判通りの実力について「高校サッカー60年史」では、「再参加の朝鮮代表宗仁商も半島蹴球が神宮大会、あるいは全日本選手権に出場して素晴らしい威力を発揮していることから、また10年前に本大会に現した培材高普、崇実専門、平壌高普などの華やかな戦績から相当の実力を期待されていた。果たせるかな、準決勝での対神戸一中戦は大会を通じての白眉だった」と記している。
この後、不幸な戦争で大会が中断されるまでの3年間に渡って、朝鮮代表は全国中等選手権大会で実力No.1の名を欲しいままにする。翌21回大会(1939年)には、朝鮮代表に決定していた平壌三中が都合により棄権。さらに交替出場が決定していた培材中までもが授業が再開されたことを理由に辞退(この当時、中等選手権は夏休みに開催されていた)したため、残念ながら朝鮮からチームはやってこなかったが、近畿から在日朝鮮人を中心にチームを編成した聖峰中が参加。初出場ながら決勝戦まで進んで関係者を驚かせた。
続く第22回大会(1940年)には朝鮮代表として普成中が初出場。ずば抜けた力の差を見せ付けて優勝旗を朝鮮半島に持ち帰った。とにかく、その得点力がすごかった。1回戦の湘南中学を8−1で破ったのを皮切りに、2回戦の函館師を12−0、準決勝では明星商を5−2で下して決勝戦に進出すると、決勝戦でも神戸三中を4−0と一蹴した。4試合で29得点3失点。高校サッカー60年史では、「すば抜けた勝ちっぷり」と題して、当時の模様を次のように紹介している。
「大会の戦績を回顧してみるならば、実力的に見て普成中の優勝は当然の帰結であった。11人の持つ個人技、とくにきっく力、体当たりの強さなど他チームより格段の強みを持っていた。また団結力のある点、チーム全体のキビキビした点、試合の駆け引きにおいても中等級離れした堂々たるもので、大学チームと試合しても接戦を演じるほどの実力のほどがうかがわれ、他の15チーム中、何校が挑戦しても歯が立たなかったであろう」
さて、この年は8月に行われた中等選手権大会に続き、秋の明治神宮国民体育大会に朝鮮代表として中東中学が参加。こちらでも「朝鮮強し」を強烈に印象付けて優勝を飾っている。1回戦で水戸商業を13−0という驚異的なスコアで下した中東中学は、その後も日本の各チームを寄せ付けない強さを見せる。2回戦で徳島商に9−1、準々決勝で明倫中に5−0、準決勝では浦和中に6−1、決勝戦でも明星商に対して4−0で圧勝し、37得点1失点という驚異的な成績を残した。
翌1941年7月に、「学徒は居留地に足止めにする。他府県にまたがる競技会は禁止し、全国大会は明治神宮体育大会以外はやらない」という方針が文部省から通達されたため、中等選手権大会はいったん中断されることとなったが、11月に行われた明治神宮大会では、またもや朝鮮のチームが大活躍する。参加チームは8チーム。朝鮮からは前年度の中等選手権大会優勝校の普成中が参加してきた。
1回戦で函館師範に3−0で勝利した普成高は準決勝で修道中と対戦。延長戦までもつれ込むという思わぬ苦戦を強いられたが、延長戦で決勝ゴールを奪い決勝戦への進出を果たした。決勝戦の相手は神戸一中。こちらは1回戦の熊本師に7−0、準決勝では青山師を3−1と下して順当に決勝戦まで駒を進めてきた。「朝鮮代表に勝つため」を合言葉に決勝戦に臨む神戸一中。民族の誇りにかけても負けられない普成中。決勝戦は手に汗を握る大熱戦になった。
決勝戦は11月3日、午前9時にキックオフされた。フィジカルの強さとスピードを特徴とする朝鮮サッカーに対する神戸一中はショートパスと組織力が武器。前半は、そのショートパスを駆使して押し気味に進める神戸一中が、18分、23分とゴールを奪って試合をリードした。「体力的にはうちらが勝っていたんだけれど、ショートパスにはかなわない。組織力の面では日本のほうが勝っていた」(張慶煥「日韓キックオフ伝説」より)と振り返るように、ここまでは神戸一中の狙い通りだったように見えた。
しかし、朝鮮のフィジカルの強さとスピードは、確実に神戸一中の選手に無言のプレッシャーを与えていたようだ。いつもなら易々とドリブル突破していく岩谷が簡単に止められる。奪った得点も相手を崩してのものではなく、こぼれ球を押し込んだものだった。賀川浩は「競り合うと粘っこく、体で押してくるし、スルーパスを出してもオブストラクション気味に防がれて上手くゆかなかった。・・・中略・・・実際にボクたちは後半同攻めていいのか分からなかった」(「ボールを蹴って50年」より)と回述する。そして、その嫌な予感が当たることになる。
前半は神戸一中のショートパス戦法に手を焼いた朝鮮だったが、後半に入ると持ち前のフィジカルの強さとスピードを武器にして神戸一中に襲い掛かった。自信のないままに、そして攻め手もよく分からないままに試合を進めていた神戸一中には反撃する手立ては残されていなかった。そして後半14分に普成高は1点を返すと、続く後半23分にもゴールを決めて同点に追いついた。結局試合はこのままホイッスルを聞くことになり、両校優勝という結果で大会は終了した。
「体力的に見て、延長までしていたら、やられたでしょうな。向こうも追い上げムードでしたし。私も試合中、ひざに怪我をしていましたから」(鴾田正憲・「日韓キックオフ伝説」より)。「体力的には、うちが勝っていたんだから、延長戦をやったら絶対に勝つ自身はありました」(張慶煥・同上)。この2人の言葉が示すように、両校同時優勝という結果にはなったが、その内容は普成高の方が優っていた。
日本と朝鮮のサッカー交流は1920代半ばから始まったわけだが、対戦結果が示すように、その実力は明らかに朝鮮が日本を上回っていた。当時の記録や文献を紐解くと、どの試合でも、朝鮮はフィジカル、スピード、そして個々の技術において日本を上回っていたとの記述が多い。特にフィジカルとスピードの違いは顕著だったようだ。しかし、その一方で、ショートパスをつなぐ組織力という点では日本に一日の長があったように思われる。ただ、トータルの力では朝鮮に勝てなかったことは紛れもない事実だった。
また当時の文献では、朝鮮の学校の活躍ぶりほど、その実力を日本が認めていなかったような節も感じ取れる。日本が韓国を統治下に置いていたという異常な関係にあったため、そこには様々な背景があったものと推測されるが、日韓のサッカー感の違いが大きく影響していたことも確かだろう。チョウ・ディンにより組織的なサッカーを伝授された日本では、ショートパスをつなぐサッカーを思考しており、フィジカルの強さとスピードを武器にする朝鮮のサッカーは、荒っぽく、組織力のないサッカーと映っていたようだ。
当然のことであるが、サッカーには「これが正解だ」という戦術はない。17か条という少ないルールであるが故に制約は極めて少なく、選手たちの個性が色濃く出るスポーツがサッカーだ。サッカーは国の文化や歴史というものが強く反映すると言われる所以でもある。組織力の日本と、フィジカルとスピードの韓国という図式は今も変わらない。当時も今も、日本のサッカー感は朝鮮のそれとは異なっていたということなのだろう。ただし、「勝ったチームが強い」ということは普遍の真理でもある。
※韓国の国名については、日本の植民地時代は「朝鮮」と表記した。
敬称略
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