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 日本サッカーの歴史 03/11/03 (月) <前へ次へindexへ>

 世界の舞台へ目を向ける日本


 文/中倉一志
 1920年代から30年代にかけて、日本のサッカーの中心となっていたのは大学チームであったこと。中でも関東の大学の実力が抜きん出ていたこと。その学生たちは、全日本選手権よりも大学リーグや東西学生対抗戦に力を入れていたこと。そして、朝鮮のサッカーは、日本のスタイルとは全く異なったスタイルを持ち、日本のサッカー界の実力を大きく上回っていたこと。こうした背景にあった日本が、どのように世界の桧舞台へと出て行ったのか、再び1930年代に戻って歴史を振り返ってみようと思う。



 1930年と言えば、いまや世界中の人たちを熱狂の渦に巻き込むワールドカップの第1回大会がウルグアイで開催された年。既に国際五輪が始まってから30年以上が経っていたが、当時はスポーツ界のみならず世界規模の統括組織の存在は珍しく、単一競技で世界選手権を行うなどという発想そのものが極めて異例な時代であった。また、通信網も交通手段も未発達で、物理的にも世界選手権の開催などというのは誰も発想するものではなかった。

 そんな中で、国際サッカー連盟(以下、FIFA)が1904年にパリで行った最初の総会で、世界選手権を開催する資格をもつのはFIFAだけであることを決議していたことは驚くべきことであるが、その後26年間に渡って、その権利が行使されなかったのも無理のないことであった。しかし、国際五輪がアマチュアによる大会であったのに対し、当時サッカーの世界では既にプロ化が進んでおり、五輪に自国の最高の選手を派遣することができない状況にあった。

 また、パリ五輪(1924年年)、アムステルダム五輪(1928年)で2連覇を飾ったウルグアイが披露した技巧溢れるサッカーは、ヨーロッパのそれとは全くスタイルが異なり、ヨーロッパではプロの選手が彼らと対戦した場合、どのような結果になるのかという興味が吹きあがった。そして、1932年にロサンゼルスで行われることが決まっていた五輪では、アマチュア規定の問題からサッカーが除外されたため、遂に個別の世界大会を開催することに至ったのである。

 しかし、当初から現在のように世界中を熱狂させる大会ではなかったようだ。なにしろ、ヨーロッパから南米に渡る手段は船によるものしかなく、しかも3週間もかけなければならなかった。そのためか、大会2ヶ月前になってもヨーロッパから参加を表明する国はなく、激憤した南米諸国がFIFA脱退をちらつかせるという事態にまで発展したとされている。その後、FIFAの調整により、最終的には、ヨーロッパから4カ国、中南米・南米から9カ国が参加することになった。



 当然のことではあるが、この大会に予選は導入されておらず、大会への参加を表明すれば自動的に出場できる状態にあった。また、参加チームの旅費と滞在費はウルグアイが全て負担することになってたため、参加チームは費用面での心配もする必要はなかった。したがって、既に前年の1929年にFIFAに加盟していた日本にも出場のチャンスはあったわけだが、日本は参加を見送っている。南米への移動の困難さや、ワールドカップそのものの位置付けが不明確なものであったことを考えると、それも当然の選択だったのだろう。

 その日本が求めた世界の舞台は、既に世界の一大イベントとなっていた国際五輪だった。日本が国際五輪と初めて関わりをは1909年の春。当時の駐日フランス大使ゼラール氏がクーベルタン男爵の書簡を嘉納治五郎に届けたことが始まりだった。これにより、フランス大使館は日本の外務省と打ち合わせの上、国際五輪への参加を歓迎するとともに、アジアの代表として嘉納治五郎がIOC委員に推薦されることになった。そして、ストックホルム五輪(1912年)への参加準備のために、1911年7月に大日本体育協会が設立されたのであった。

 大日本体育協会の英語名が「Japan Amateur Athletic Association」とされたように、設立の中心となった嘉納治五郎はその設立の目的を「日本国民の体育を奨励する(大日本体育協会規約第二条)」とうたっており、その後、体協を競技の普及・強化を目的とするよう改めようとする各競技団体の関係者との間に、様々な軋轢が生まれたとされている。嘉納治五郎自身は、「参加することに意義がある」とする国際五輪の理念と、アマチュア思想を強く支持していたのであろう。

 現在でも日本人の五輪好きは誰もが納得するところではあるが、近代スポーツの普及の役割を担った大日本体育協会自体が国際五輪への参加を目的に設立されたものであること。また、近代五輪への参加を目指す中で、各競技が普及していったという背景を考えれば、それも当然のことと言えるだろう。また、現在でもアマチュア思想が色濃く残っているのも、こうした歴史によるものなのかもしれない。そしてサッカーも、国際舞台といえばオリンピックという環境の中で強化が行われていくことになる。



 ところで、いつの時代でも、代表選手の選考というと一筋縄では行かないものであるが、当時の選考方法について触れておこうと思う。日本が初めて代表チームを編成したのは、1917年に行われた第3回極東選手権大会。しかし、現在のように代表監督が選手選考するという慣習はなく、極東選手権が開催されるたびに選考方法を決定し代表チームを編成していた。

 当時の代表チームの選考方法の変遷は下記の通り。なお、全国からのピックアップチームが編成されたのは、第9回極東選手権大会(1930年)が初めて。それまでは、単独チームで臨んだ方が組織力があるとの理由から、予選を勝ち抜いたチームに数名の補強選手を加えた形で代表チームが編成されていた。当時の資料からは、ピックアップチームの編成には否定的であった様子が窺える。

 また、第9回極東選手権大会の代表チームも、選考の結果、メンバーの大半は東京帝大で占められており、実質的には、当時最強とうたわれていた東京帝大に数名の補強選手を加えたチームとなっており、それまでのチーム編成とは大きく異なるものではなかった。実質的なピックアップチームとなったのは第10回極東選手権大会(1934年)が初めてと言っていいだろう。

1) 第3回極東選手権大会(1917年)
 東京芝浦の埋立地で行われた第3回極東選手権大会に臨むにあたり、日本最初の代表チーム決定のための予選を希望するチームもあったが、時間的余裕もなく、東京蹴球団を推薦の形で代表チームに選出した。
2) 第5回極東選手権大会(1921年)
 1921年4〜5月にかけて東西で予選を実施。それぞれの勝利チームにより5月6、7日の日程で2回戦を行い、勝利チームを代表チームに選出した。関東の予選に参加したのは、アストラクラブ、埼玉師範、全関東蹴球団の3チーム。この予選を勝ち抜いた全関東蹴球団が関西予選を突破した関西学院と決定戦を行い、2連勝した全関東蹴球団が代表チームに選出された。なお、全関東蹴球団とは関東地区のピックアップチーム。東京蹴球団を中心に、東京高等師範、ならびに大学生で編成されていた。
3) 第6回極東選手権大会(1923年)
1922年11月に「ア式蹴球挑戦規定」が制定され、全日本選手権優勝チームに対する挑戦の方式が採用され、挑戦試合での勝者を日本代表チームとして派遣した。代表決定戦は、1923年1月20日に、名古屋舞鶴公園グラウンドにて東京蹴球団と関西サッカー倶楽部の間で争われ、3−1で関西サッカー倶楽部が代表権を獲得した。
【ア式蹴球挑戦規定】
@ 挑戦せんとするチームは、姓名、年齢、職業、住所等を書き添え日本蹴球協会宛12月中に申し込むこと。
A 挑戦せんとするチームは、大会優勝組の指定する日時と場所(名古屋の予定)とにて2月末日までに3回ゲームを行うべし。
B 挑戦申し込みチーム多数の時は、大会優勝組の指定する日時と場所とにて各自1回ゲームの予選をなし、最後に大会優勝組と当たること。2、3項の費用は一切挑戦者各自の負担とす。
C 既に大会予選又は大会に出場し敗れたるチームは、挑戦することを得ず。
D 挑戦せんとする新チームのメンバーは、既に出場して敗れたる同一チーム中より5人以上加わることを得ず
E メンバーの資格は極東大会に拠る。
F 挑戦を受けたる優勝チームのメンバーは、大会の際のものたること。
4) 第7回極東選手権大会(1925年)
第7回極東選手権大会の代表決定予選は、1925年4月11、12日の両日に渡り、東京高等師範グラウンドで行われた。関東、関西の予選にはそれぞれ5チームが参加し、早稲田大、大阪サッカーが、また中国と東海地区は推薦で広島黒猫と岐阜蹴球団が決勝大会に進出し代表の座を争った。広島黒猫は、広島鯉城を中心に全国から名選手を集めて編成されていたチームで、現在のピックアップチームに近いチームであった。しかし、当時のサッカー界では、この編成は快く思われていなかった様子が窺える。決定戦は大阪サッカーと広島黒猫との間で争われたが、前評判を覆して関西サッカーが代表の座についた。
5) 第8回極東選手権大会(1927年)
京阪地区3、東海地区2、東京地区14がそれぞれ各地区予選に出場。関大、八校蹴球団、神中倶楽部、早大の5チームに、中国地区代表の広島蹴球団を加えた6チームで代表決定戦が行われた。日時は1927年7月、明治神宮競技場だった。代表の資格を得たのは早大。この早大のチームに4人の補強選手を加えて出場した。
6) 第9回極東選手権大会(1930年)
代表チーム決定の予餞会は行われず、協会によるピックアップチームが決定されることとなった。第8回極東選手権大会以降、いかにして同大会を戦うかの議論が活発になり、度々ピックアップチームを作ることに関する議論が行われていた。結果的に、必ずしも予選を勝ち抜いた単独チームが最適ではないとの認識が高まり、東京、関西両カレッジリーグの関係者から19人を選抜した。ただし、中華民国との対戦での先発メンバーから分かるように(東京帝大8人、関学2、早稲田1)、実質的には東京帝大中心のチームであった。
7) 第10回極東選手権大会(1934年)
東西対抗選手権大会を関東、関西で2回行い、この試合で代表選手を選考することに決定していた。9月21日に南甲子園球場で行われた第1戦は5−3で関東が勝利したが、9月28日に神宮競技場で行われた第2戦では6−1で関西が勝利。その結果、東西から、それぞれ8人が代表に選出された。
8) ベルリン五輪(1936年)
大日本蹴球協会は選手選考について確固たる方針を示さないまま、早大ならびに早大OBを中心とする代表チームを編成し、関西のサッカー関係者、朝鮮から批判を浴びた。



 なお、ベルリン五輪代表選考時に様々な波紋が起こったことから、この大会以降、大日本蹴球協会は、代表チーム編成に当たっては、代表候補をあらかじめ選定し、随時強化合宿を行った上で最終メンバーを決定する方式に改めている。
敬称略
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