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 日本サッカーの歴史 03/11/11 (火) <前へ次へindexへ>

 ベルリンの奇跡 その1 五輪代表選考の波紋


 文/中倉一志
 1930年代は世界の人々にとって最も不幸な年代であった。1929年に勃発した世界恐慌は資本主義各国を不況のどん底に陥れ、その不況への対応をめぐり世界中では様々な動きが起き、世界が不幸な戦争へと向かって動き出していた。そして日本も、1931年9月18日に関東軍が満州事変を引き起こし、太平洋戦争へ向かって歩き始めてしまった時期であった。ベルリン五輪はそんな戦争の足音が聞こえ始めた1934年8月1日、ヒットラー率いるナチス・ドイツがスポーツを政治宣伝の道具として利用した国威宣揚のための大祭典として開催された。

 ヒットラーは世界最大10万人収容のスタジアムを建設した他、世界37カ国へ向けてラジオの世界同時中継やテレビの試験中継を実施。当時としては世界最大の規模の五輪を開催し、その国力を世界中に知らしめた。ちなみに、NHKが初めてラジオの実況放送を行ったのもこの大会で、200メートル平泳ぎ決勝の中継の際、担当アナウンサーが、「前畑リード、前畑がんばれ、前畑がんばれ、リード、リード!! 勝った、勝った」と絶叫したのはあまりにも有名な話だ。

 ドイツ同様、五輪は国力を示す絶好の機会ととらえていた日本はベルリンへ大選手団を送り、そんな国家の思惑を背負わされながら日本選手団は大活躍を見せた。前畑秀子が日本人女性として始めての金メダリストになった他、1500メートル自由形では寺田登が、そして葉室鉄夫が200メートル平泳ぎと男子800メートル競泳の両種目で金メダルを獲得。陸上では田島直人が男子三段跳びで世界記録を樹立して金メダルを獲得したほか、当時日本の支配下にあった朝鮮出身の孫基禎(ソン・ギジョン)がマラソンで金メダルを獲得した。

 また、午前10時に始まった男子棒高跳びでは、大江季雄と西田修平が銀と銅をかけて大熱戦を展開。勝負は午後10時になっても決着せず、2人は互いのメダルを半分ずつつなぎ合わせたという友情物語も生まれた。そして、初めて五輪に参加したサッカー日本代表も、優勝候補の一角と目されていたスウェーデンを1回戦で破るという大殊勲を挙げた。いわゆる「ベルリンの奇跡」である。しかし、そのスタートは実に波乱含みのものであった。



 日本が始めて国際試合を戦った第3回極東選手権大会(1917年)以来、代表チーム決定に際しては常に大日本蹴球協会(関東)と関西との間では対立があった。そんな中で、協会は代表チーム結成の都度、その決定方法を公にして予選会を行うことで対応してきたが、第10回極東選手権大会の代表チーム決定にあたって、その対立が大きく表面化。その影響はベルリン五輪選手選考にも大きな影を落とし、関東対関西の地域的対立、そして日本対朝鮮の民族的対立を生むまでに至った。

 関東と関西の対立は、協会側が関東中心の、それも早大中心にチームを編成しようとしたことに端を発した。当時の両者の実力を比較すれば、関東が圧倒的に優位にあったことは間違いないが、代表選手決定にあたって関学出身の選考委員であった斎藤才三が、当初選考の対象に入っていなかった東西対抗戦を選考対象とするように提案。選考委員会はこれを受け入れて代表決定を延期したが、この東西対抗に関西が勝ったにもかかわらず、関西から代表選手を2人しか選ばなかったことに関西側が猛反発を見せたのだ。

 特に、当時ウィングとしてトップフレーヤーと自他ともに認められていた大谷一二が選考からもれたことを関西側は重要視した。大谷が選考から漏れた理由は、第10回極東選手権の中国戦において、足を蹴りにきた相手の選手から逃げたというものだったらしいが、これを不当な選考と主張する関西協会では大日本蹴球協会分裂論まで飛び出すこととなった。田辺五兵衛の必死の説得により最悪の事態は免れたが、関西協会は1936年3月27日付で協会運営改革を求める声明文を報道機関に提出することとなった。

 しかしながら、大日本蹴球協会は同年4月22日に一方的に代表候補選手を発表。選考結果は覆らなかった。その結果、大谷一二以外に選考されていた上吉川(関大)、小橋(神戸商校)の2人も代表候補を辞退。結局、関西出身のプレーヤーは1人もいないという代表チームが編成された。代表選手の出身地の人数比率はともかく、代表選手として活躍が見込まれた関西出身の3選手が代表チームに参加しなかったことは、やはり望ましくない結果だったと言わざるを得ないだろう。



 さて、朝鮮との間で起こった民族的対立も、代表候補メンバーに金容植(キム・ヨンシク)と金永根(キム・ヨングン)の2人しか選ばれなかったことが引き金になった。当時、日本の支配下におかれていた朝鮮においては、民族を代表して五輪に参加しようと思っても、それは叶わない夢。世界の舞台に立つには日本人として代表選手になるしかなかった。民族の誇りのために、民族の名を伏せて世界の舞台に立つ。その心の内は我々にはとても想像もし得ない。しかし、朝鮮は代表選手になることを夢見て、第15回(1935年)全日本選手権に乗り込んできた。

 朝鮮からやってきたのは半島での予選を勝ち抜いた京城蹴球団。日本一を決定する大会に朝鮮のチームが参加するのは、これが初めてのことだった。しかし、「民族の誇りにかけて絶対に負けられない」とする京城蹴球団は2日間で3試合を消化するというハードスケジュールにもかかわらず圧倒的な実力を見せつけて優勝を飾る。そして、秋に行われた明治神宮大会には平壌蹴球団から金永根を補強してこちらも優勝。日本サッカー関係者に「朝鮮強し」の印象を強烈に焼き付けた。

 五輪の前年度に行われた2つの日本一を決定する大会に優勝した京城蹴球団。その結果から、朝鮮関係者は五輪代表チームは朝鮮の選手が中心に選ばれるものと考えた。しかし、実際に選ばれたのは上記の2人。これを民族差別によるものだとして朝鮮は日本に猛抗議を行うことになる。その当時の様子を「韓国蹴球百年史」は下記のように伝えている。

「1936年、日本蹴球協会は、第11回ベルリンオリンピックを控え、日本代表チーム補強化する目的で、これより1年前の1935年6月1日に、第1回全日本蹴球選手権大会を開催した。日本蹴球協会は、この大会を通して、代表選手を選抜する予定だったが、当時、朝鮮を代表して出場した京城蹴球団が優勝すると、これを黙殺して、秋に開かれる第8回明治神宮体育大会の成績を土台に日本代表を選抜すると、突然方針を変えて発表した。この年の10月29日に開幕した明治神宮体育大会でも、京城蹴球団が再び日本の強豪たちをことごとく撃破して、栄えある優勝を成し遂げたために、日本サッカー界を揺るがす腰になった」

「・・・中略・・・日本代表チームを選抜する過程で、しかたなく、定員25名中、金容植、金永根という2人の朝鮮の選手を選抜した。・・・中略・・・このように当初の選抜方針とは異なり、朝鮮の選手に、日本の選手より優秀な選手がいるにもかかわらず、日本の選手だけで構成したことは、日本人たちの浅はかな腹づもりをあらわにした仕打ちとしか思えないのだ」

※第1回全日本総合選手権は第15回全日本選手権と兼ねて行われた。



 朝鮮の抗議の先頭に立っていたのが、朝鮮蹴球協会二代目会長の呂運亨(ヨ・ウンジョン)であった。独立運動家としても名声が高く、言論やスポーツを通して民族運動を展開していた呂運亨にとっては、スポーツにおける差別は断じて許されないことだった。そして、その意向を受けた李相佰(イ・サンペク)が調停役として大日本蹴球協会に説得を続けることになる。李相佰は早大留学中にバスケットボール部の主将を務め、大日本バスケットボール協会の設立に尽力した人物で、当時は大日本体育協会の理事を務めていた。

 しかし、一度発表した代表選手を大日本蹴球協会が覆すはずはない。そして朝鮮蹴球協会は金容植、金永根の2人に代表候補選手を辞退するように通告する。そんな中で、2人は代表候補合宿に参加。最終代表メンバーへの生き残りをかけて並々ならぬ意欲を見せて合宿に取り組んだ。当時の2人の様子を東京朝日新聞は、「・・・16選手は、この日を待ち憧れていたので熱意が溢れ、金(容)、金(永)両選手の如きは定められた午前7時の起床の掟を破って午前6時に床を抜け出して球場に飛び出しランニングの練習をするという有様・・・」(東京朝日新聞 1936年3月27日付)と報じている。

 それでも朝鮮側の態度はかたくなだった。当時、金永根が所属していた平壌蹴球団は天津遠征を行い、現地に居留していたイギリス人、イタリア人、フランス人からなる全天津軍と試合を行っていたが、その遠征に帯同するよう平壌蹴球団から金永根に要請が下ったのだ。遠征は4月下旬。しかし、金永根は代表候補合宿に参加中。遠征へ帯同するためには代表候補合宿から引き上げなければならず、それは代表候補を辞退することを意味していた。そして、金永根は天津遠征への参加を選択し、最終メンバーに選ばれた朝鮮人は金容植1人だけとなった。

 朝鮮のサッカー関係者の中では、ベルリン五輪の選手選考は民族差別によるものだと指摘する声は多い。しかし、結果的に関西からも1人も代表が選ばれなかったように、大日本蹴球協会には関東、特に早大中心で代表チームを編成するという強い意思が働いており、関東以外の地域から代表選手を選出することに対し当初から否定的であった節が窺える。民族差別というよりは「関東至上主義」を貫いた結果といえるだろう。

 しかし、日本が朝鮮を支配下におくという不幸な歴史の真っ只中にあった当時、日常の様々な面で朝鮮に対して差別的な行為が行われていたことは事実。それがこうした対立の要因となった。そうした差別が存在しなければ、また違った議論も出来たはずなのだが、全ては日本と朝鮮の異常な関係の中での出来事だった。


※このベルリン代表選考問題についての大日本蹴球協会側の考え、当時の背景等については次回のレポートで紹介する予定です。
敬称略
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