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 日本サッカーの歴史 03/10/20 (月) <前へ次へindexへ>

 ベルリンの奇跡 その2 関東主体を押し通した大日本蹴球協会


 文/中倉一志
 大きな波紋を巻き起こしたベルリン五輪代表選考であったが、大日本蹴球協会は、その選考経過について機関紙「蹴球」4巻2号昭和11年(1936年)4月号に次のように記している。(掲載文は「日本サッカーブックガイド」より引用しました)


選手候補者決定ノ顛末左ノ如シ
昭和拾年五月廿十六日
全国代議員会ニ於テ左記ヲ決議ス
(一) 第拾一回万国オリムピツク大会絶対参加
(二) 派遣選手ノ決定ハ「オリンピツク派遣選手銓衡委員会」ヲ設置シ、同委員会ニ依ツテ決定ス
(三) 同委員会委員ハ各地方協会ニ於テ其候補者ヲ推薦シ最後的ノ決定ヲ大日本蹴球協会理事会ニ一任ス
昭和拾年七月八日
理事会ニ於テ全国代議員会ヨリ一任セラレタルオリムピツク選手銓衡委員ヲ左記ノ通リ推薦委嘱ス
竹腰重丸 濱田諭吉 工藤孝一 斎藤才三 永野武
昭和拾年八月拾六日
理事会ニ於テ七月下旬開催ノ予定ナリシオリムピツク選手銓衡委員会ハ竹腰委員渡満ノ為延期セル旨報告、承認ス
昭和拾年九月九日
理事会ニ於テオリムピツク選手銓衡委員会ヲ九月拾五日ニ開催スルコトニ決定ス
昭和拾年九月拾五日
オリムピツク選手銓衡委員会開催ス、出席者 濱田、工藤、永野各委員 左記ノ銓衡綱要ヲ決定ス
(一) 従来ノ経験、現時ノ蹴球界ノ状態ニ鑑ミ全国的ピツクアツプテイームハ不適当ト認メラルルニ依リ
(イ)今シーズン断然タル強味ヲ有スルテイームノ出現シタル場合ニハ該テイームヲ主体トシテ銓衡ス
(ロ)右ノテイーム無キ場合ニハ 一地方協会管轄区域ヲ中心トシテ銓衡シ他地域ヨリモ補充スルコトヲ得
(二) 銓衡ニハ全日本選手権大会、神宮大会(全国地方対抗選手権大会)、東京学生リーグ戦、東西学生リーグ代表対抗試合其他ヲ参考トシ、猶必要ト認メラルル場合ニハ更に銓衡試合ヲ行フコトモアルベシ
昭和拾年拾月拾四日
理事会ニ於テオリムピツク選手銓衡委員会ノ前掲ノ決議ヲ確認ス
昭和拾年拾一月三日
オリムピツク派遣選手銓衡委員会開催 出席、竹腰、濱田、工藤、斎藤各委員  左記ノ通リ決定ス
参考資料トセルコレマデノ試合ニ現レタル限リニ於テ著シク優秀ナルテイーム無ク銓衡綱要第一項(イ)(ロ)ニ該当スルテイーム無シ、優勝セル朝鮮テイームニ於テモ個人的ニ優秀ナルプレーヤーハ僅ニ金永根、金容植等二三ノ者ヲ挙ゲルノミ
昭和拾年拾二月拾五日
オリムピツク派遣選手銓衡委員会開催 出席、竹腰、濱田、工藤、斎藤各委員  左記ノ通リ決定ス
(一) 早大ハ選手銓衡綱要第二項ニ係ル諸試合ニ出場シタルテイーム中最モ優秀ナリト認メラルルモ尚同綱要第一項(イ)ニ該当スルモノトハ認メ難キニ依リ、委員合議ノ上同綱要第一項(ロ)ノ場合ニ拠り関東協会管轄区域ヲ中心トシテ銓衡スルコト
(二) 斎藤委員ヨリ関西協会所属テイーム中ニハ優秀ナル選手アルニ依リ昭和拾一年一月十九日ニ行ナハル可キ関東関西対抗選抜試合ニ於ケル関西側選手ヲ観察セラルベキ旨提案アリ一同之ヲ承認シタリ
昭和拾一年一月拾九日
オリムピツク派遣選手銓衡委員会開催 出席、竹腰、濱田、工藤、斎藤、永野各委員
本日ノ試合ヲ以テ参考試合ヲ打切トシ左記ノ選手ヲ第一次候補者トシテ推薦セリ
選手氏名
FW 市橋時蔵(慶大O・B) 右近徳太郎(慶大) 加茂正五(早大) 川本泰三(早大) 加茂健(早大) 金永根(崇実) 高橋豊二(帝大) 西邑昌一(早大) 播磨幸太郎(慶大) 松永行(文理大)
HB 石川洋平(慶大) 種田孝一(帝大) 金容植(普成) 小橋信吉(神戸高商) 笹野積次(早大) 関野正隆(早大) 立原元夫(早大) 高山英華(帝大O・B) 吉田義臣(早大)
FB 鈴木保夫(早大) 竹内悌三(帝大O・B) 堀江忠男(早大)
GK 上吉川梁(関大) 佐野理平(早大) 不破整(早大)
以上廿五名
昭和拾一年三月九日
理事会ニ於テ銓衡委員会ヨリノ前掲選手候補者推薦ヲ確認ス




 そもそも代表選手選考方法を、早い時期に明確に打ち出せなかったのが騒動の発端のように思われる。この年は5月26日に行われた全国代議員会で選考委員会の設置を決定したものの、選考方式を決定したのは9月15日。既に全日本選手権は終了しており、朝鮮側から「朝鮮を代表して出場した京城蹴球団が優勝すると、これを黙殺して、秋に開かれる第8回明治神宮体育大会の成績を土台に日本代表を選抜すると、突然方針を変えて発表した」(韓国蹴球百年史)と批判されるのも止むを得ないことだった。

 また、一見理路整然として見える選考方式も、実は早大単独、あるいは早大中心のチームを編成しようという強い意図が見え隠れしており、関西、朝鮮以外からも反発の声が上がったというのもうなづける。大日本蹴球協会は、圧倒的な強さを発揮するチームが現れた場合には、そのチームを単独チームとして代表に決定するということを第1に挙げているが、これが早大を意味していることは誰の目にも明らかだったからだ。

 当時の日本サッカー界の中心は大学生。東西リーグ優勝校による対抗戦の勝者が真の日本一と考えられていた。そのため、学生は全日本選手権にはフルメンバーで臨まず、OBを加えたチームで出場していた。したがって、最強チームとは学生のチームであることは明確な事実。その学生サッカー界にあって、関東は関西を圧倒。早大は、その関東リーグ戦、東西リーグ対抗戦ともに2連勝中であった(最終的には、この年も両方に優勝し3連覇を飾っている)。

 また、圧倒的な強さを発揮するチームが現れない場合は、「一地方協会管轄区域ヲ中心トシテ銓衡シ他地域ヨリモ補充スルコトヲ得」と規定しているが、ここでいう一地方協会管轄区域とは関東のこと。例え、早大が圧倒的な強さを発揮しなかった場合でも、関東中心のメンバーを組めば、関東リーグで連続優勝中の早大中心となることは明らか。いずれにせよ、結論に大きな差はなかったものと思われる。

 また、全国各地からのピックアップチームを作ることについては否定的であったため、例え東西対抗で関西が勝っても、どちらかを中心にせざるを得ず、当時の力関係から関東中心になることは決まっていたようなものだった。結局のところ、誰が代表になるかは別にしても、9月15日に行われたオリンピツク選手選考委員会の決定によって、その体制はほぼ決したと同じだったといえる。関西も朝鮮も、この段階で既に代表選手に選ばれる可能性があったのは、ほんの一握りの選手に絞られたと言っていいだろう。



 大日本蹴球協会は、第9回(1930年)極東選手権大会の代表チーム編成の時から、それまでの単独チームによる代表チームではなく、全国からピックアップされた選手による代表チーム編成へ方向転換していた。その協会が、単独チームによる代表、あるいはピックアップチームとは言え、局地的な地域からの選抜メンバーでチームを編成しようとしたのは、それなりの理由がある。やはり第一は、第10回(1934年)極東選手権大会における揉め事が尾を引いていた。

 早大中心のメンバーで臨んだ第9回極東選手権大会で、初の国際タイトルを手中に収めた日本であったが、関東・関西、同数の選手で臨んだ第10回(1934年)極東選手権大会では、合宿中から東西の対立が目立ち、それが航海中の船の中で爆発。現地入りしてからも、東西の対立は解消しきれず、結局は1勝2敗という思いも寄せない結果となった。その経験から、単独チーム、あるいは地域限定の選抜メンバーで臨むべきという声が強かったものと思われる。

 また、戦術的な問題も代表チーム編成にあたって大きな決め手となった。当時は、ショートパスをつないで組織的に展開する関東と、ロングキックを多用するキック&ダッシュを中心とする関西というように、東西の戦術には明らかな違いが存在していた。しかし、日本が極東選手権で成果をあげるようになったのは、ショートパス戦法によるところが大きく、ショートパスによるサッカーを志向していた大日本蹴球協会が関東を中心にチームを編成しようとしたとしても不思議ではない。

 また、ベルリン五輪の監督を勤めた鈴木重義は、チョウ・ディンを早大に招き、直接指導を受けた人物で、所謂、チョウ・ディンの愛弟子といえる。また、コーチの竹腰茂丸もチョウ・ディンの指導の影響を強く受けた人物であり、この2人が、チョウ・ディンが教えたショートパスによるサッカーを追及していたことは当然のこと。2人が指導する代表チームがショートパスを多用する早大・関東中心になるのは当然といえば当然のことだった。



 しかし、そうはいっても、そのやり方に問題がなかったわけではない。とにかく「早大ありき」の代表選考には、関東の他の大学のOBからも反発の声が上がり、また、選手の間でも疑問視する声も上がっていた。ベルリン五輪代表の川本泰三も「チームという点から見てもおかしいんだ。選考されたメンバーはCFがボクと松永(文理大)、高橋(早大)と3人もいてウイングがいない。これでは試合に困る。大谷を連れて行って欲しいとノコさん(竹腰茂丸)にも言ったんだが・・・」(イレブン 1977年1月号)と、当時を振り返っている。

 結果として1人の代表も送ることが出来なかった関西が一番の被害者のようにも見えるが、関西とて関東同様、局地的な観点に縛られていた。この年の東西対抗で勝利した後、大阪の実家に帰っていた川本泰三(早大)に、後藤靭雄が「関西が勝ったから、オリンピックも関西が代表でいくんや。ただ、お前は関西にいれたる。いま、どこやらで飲んでいるから、お前も出て来い」(イレブン 1977年1月号)などと電話をかけてきたというエピソードも残っている。

 いずれにせよ、当時は、現在では想像がつかないほどに関東と関西は強く対立していたことが窺える。高等師範学校が「日本サッカーの宗家」的な役割を果たしながら発展してきた関東。日本で初めて日本人だけのサッカークラブを設立した御影師範を中心に発展を遂げた関西。どちらも「我こそが」の気持ちが強かったのかもしれない。あるいは、東西の拠点として肩を並べて発展してきた東京と大阪の地域的な対立構造があったのかもしれない。

 第9回極東選手権大会に集まった選手たちからは、「単一チームが勝ったから代表選手になるという慣習を打破して、全国から国際級の強い選手を集めて選抜しよう」(田辺五兵衛「ボールを蹴って50年(神中クラブ50年史)」)という声が早くから上がっていたが、これが実現するには、まだ時間が必要だった。今では信じられないことであるが、それほど東西の対立は激しかったようだ。
敬称略
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