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日本サッカーの歴史 03/11/24 (月) | <前へ|次へ|indexへ> |
ベルリンの奇跡 その3 知らなかった3バックシステム 文/中倉一志 |
さて、とにもかくにも代表チームを決定した日本は、初めて出場するオリンピックに向けて着実に準備を進めていった。しかし、現在とは違って海外遠征は簡単なものではなかった。資金面を例に取れば、ベルリン五輪参加のために必要とされた経費は、旅費73,500円、合同練習費・準備金5,300円の合計84,800円。しかし、準備されていたのは、体育協会からの54,000円と極東大会繰越金の800円の合計54,800円。不足分の30,000円を、どうにか捻出しなければならなかった。
当時の大学卒の初任給は40円〜45円。1万円で庭付きの邸宅が購入できたというのだから、資金集めが困難を極めたことは想像がつくというものだ。ちなみに、当時の協会機関誌である「蹴球」(第3巻第3号)の目次には、「1936年オリンピックのために我選手をベルリンへ送れ!協会の手ぬぐいを買え」との言葉と共に、シュートを打つ選手と、それを防ごうとするGK、ならびにDFの選手が描かれた日本手ぬぐいの見本が掲載されている。値段は20銭とされているが、おそらく、これが日本最初の代表グッズだろう。この他にも、ゆかた地一反を2円で売った記録も残っている。
また、遠征そのものも、現在からは想像が出来ないほど大変だった。当時は飛行機でベルリンまで行くというわけにはいかず、陸路で行くしか方法が無かったのだ。まず東京駅から国鉄(現JR)を乗り継いで下関まで行き、そこから船で朝鮮に渡る。そして朝鮮、満州を鉄道で縦断してソ連へ。そこからシベリア鉄道に乗ってモスクワへ入り、最終目的地であるベルリンまでたどり着いた。日本代表が東京駅を出発したのは6月20日。ベルリンに着いたのは7月3日のことだった。
更に当時は戦争の影がちらつき始めた頃で、そういった観点からも簡単な遠征ではなかったようだ。日本代表の一員であった堀江忠男は、「わが青春のサッカー」(1980/2 堀江忠雄著 岩波書店)の中で、当時の様子を次のように回想している。
われわれの乗った特別列車がハルピン駅に着いた。ホームに降りると、パパダート氏が1人で立っていた。・・・中略・・・同氏がいった。『昨日は、チームの旗を先頭に全員ホームに整列して待っていたんですよ。私の新聞にあなたが手紙で教えてくれた通過日時を載せたら、満鉄から1日間違っているから訂正して欲しいと連絡があったのです。だが、やっぱりあなたの知らせが正しかった・・・。』
『王道楽土建設』(理想的な国家の建設)、『五族協和』(満州人、漢人、朝鮮人、ロシア人、日本人の五民族がなにかよくやっていく)と美しいスローガンの氾濫していた満州国の実態は、『匪賊の破壊行為』(人民のゲリラ闘争)を恐れて、オリンピック選手団の通過日時をいつわらなけばならないような治安状況だったのである。(「わが青春のサッカー」1980/2 堀江忠雄著 岩波書店)
ベルリン入りした日本代表は、この後1ヶ月をかけて初戦のスウェーデン戦へ向けての準備を進めていくのだが、7月14日に地元のクラブチームであるバッカーセンとの練習試合で初めての経験をすることになる。当時の日本のシステムは「ピラミッド型」と呼ばれるものであったが(図1)、バッカーセンはフルバックを3人置いたシステム(図2)。これはWMシステムと呼ばれる当時の最新のシステムだったが、日本代表が実際に目にしたのは、この日が初めてのことだった。
(図1) ピラミッド型システム (図2) WMシステム 各ポジションのLはレフト(左)、Rはライト(右)、Cはセンター(中央)を意味する
W:ウイング、I:インナー、F:フォワード、H:ハーフ、B:バックス
WMシステムが生まれたのは、オフサイドルールの改定と大きな関係を持っている。オフサイドルールの改訂は1925年に行われたのだが、それまでのオフサイドルールでは、パスを受ける選手は前方に相手側の選手が3人(GKを含む)いることが必要とされていた。このルールを巧みに利用したのが、イングランド2部リーグのノッティンガム・カウンティのモーリーとモンゴメリーの2人のフルバックだった。
相手がボールを保持すると、すかさずモーリーが高い位置へ飛び出して、同時にモンゴメリーがゴール前で控える。こうすることによって、前に飛び出してくる相手チームのFWをオフサイドにかけ、仮にオフサイドトラップをかいくぐられても、ゴール前に控えるモンゴメリーがクリアするというものだった。この効果は抜群で、1試合平均失点が1点未満という結果をもたらした。やがて、このオフサイドトラップを取り入れるチームが増え、ゴールの少ない試合が増えるという弊害が生まれてきた。
そこでFIFAは、これまでの3人という制限を2人に変更。すると試合の傾向は一変した。モーリーとモンゴメリーが生み出したオフサイドトラップは過去のものとなったからだ。そして、攻撃側の両サイドの選手に2人のフルバックが引っ張られ、ポッカリと空いた中央をCFに突破されるシーンが続出。それまでのゴールが生まれにくいという弊害は一気に解消され、大量得点が生まれる試合が続出するようになった。
失点が増えれば守備を固めようとするのは当然の流れだ。そして、イングランド1部リーグのアーセナルが生み出したシステムが「WMシステム」だった。CHを最終ラインの真中に下げて2バックから3バックに変更、両ウィングとCFをマークさせて守備を固める。更に、薄くなった中盤をカバーするために、LIとRIを2列目に下げて攻守のつなぎ役としての役割を与えて全体のバランスを保つようにしたものだった。
この新しいシステムに日本代表の面々は相当てこずったようだ。第11回オリンピック大会の報告書には、当時の様子が次のように記されている。「このチームの守り方の特色は、センターハーフがぐっと下がり目に位置して。両パックが横へ開き、攻撃の参加は主として両翼ハーフに任せる陣形でした。この布陣のために味方の両翼とセンターフォワードの活動が恐ろしく窮屈にされて巧く攻撃を途中で断ち切られてしまった」。
当時、日本のサッカー関係者の間では、David Jackが書いた「Soccer」という文献により、その存在自体は知られていたようだが、「概念的に掴むに過ぎなかった」(竹腰重丸)ことにより、旧態依然としたピラミッド型システムを採用していた。攻撃側の技術の向上に伴い、相手のインナーをマークするためにLH、RHの2人がCHのやや前に位置する等、若干のシステムの変化を見ることは出来たが、当時の日本の攻撃の技術では、この程度の対応で足り、これ以上の発展をみることが出来なかったのだ。
その後、更に攻撃の技術が向上するに伴い、この若干の変化では守りきることができず、日本においても大量得点の試合が続出するようになる。しかし、それでもこれに対応する有効な手段を持たないままに推移し、やがてベルリン五輪を迎えることになったのだった。こうした守備面の課題については当時のサッカー関係者も認めるところであり、大会前の1ヶ月の練習で、どれだけ守備の安定感を高めることが出来るかが最大のポイントとされていた。
そんな日本がはじめて実体験したWMシステム。日本日本代表は、早速このシステムを採用してオリンピックに臨むことを決定する。CHの種田を3バックの中央に配して相手のトップ3人にマンマークで付き、HBの立原が守備重視、もう1人のHBである金容植が攻守の切替の起点となる役割を務める。そしてRIの右近は豊富な運動量を生かして攻守両面でボールに絡み、LIの加茂兄(健)が左サイドで攻撃を作り、チャンスには2列目から飛び出していくというものだった。
もともとWMシステムとは従来の流れから全く違った観点から生まれたものではなく、オフサイドルールの改訂や、攻撃側の技術・戦術の向上に対応して発生してきたもの。日本においても、前述の通り、僅かながらもシステムの変化の兆しが現われていたこともあって、短期間のうちに習得することは不可能なことではないとの判断に至ったのだろう。もっとも、ピラミッドシステムでは守りきれないことが明らかだったことが最大の理由であることは間違いない。
さて、その後、地元チームとの練習試合を通じてWMシステムを習得しながら本番に備えた日本代表だったが、その様子を、当時の東京報知新聞は次のように伝えている。
「蹴球代表軍軒昂 練習3試合に敗れたが欧州の強豪と互角」(1936年7月29日付 東京報知新聞)この記事を書いた横村特派員は、第8回極東選手権で日本が国際試合初勝利を挙げたときの日本代表の一員。この記事が後輩たちを思うが故の応援記事だったのか、それとも冷静な分析によるものだったのか、日本代表の面々は、この6日後に行われたスウェーデン戦で、その真偽の程を証明することになる。
初めて本場に遠征した蹴球は、対バッカーセンで3−1、対ミネルバで4−3、対フラウワイスで3−2と、いずれも惜敗した。この練習3試合を終わって、4日の対スウェーデンとの一戦を待機している。試合はバッカーセンを除き、いずれもベルリンの一流チームだが、ともに勝てる試合を失った感がある。「来たり、見たり」、しかして欧州の水準を比較想像された我が蹴球悲観論は全く捨てねばならぬと感じた。当地一流のプレーヤーも高く評価している。フォーメーションもプレーも似たようなもので、ボールのキープは一段優れている。ゴール前の寄せは日本がはるかに鋭い。予選1回戦のスウェーデンはドイツより強いと聞くが、大きなモーションのドッジングに釣られたり、マークを誤らなければ、断じて対等に戦える。GK佐野のプレーは水際立ってきた。コーチングスタッフは、作戦に余念がない。
敬称略
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