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 日本サッカーの歴史 03/10/20 (月) <前へ次へindexへ>

 ベルリン五輪で学んだもの


 文/中倉一志
 ベルリン五輪でイタリアに敗れた日本は、その後、エッセンで練習試合を行い、さらにスイスのチューリヒで、プロサッカークラブであるグラスホッパーとナイターで試合を行なった後に帰国した。練習試合も含めて7戦して1勝6敗。五輪という世界の桧舞台で優勝候補スウェーデンを破るという偉業を成し遂げたのと同時に、世界の一流プレーを嫌というまで体験させられた日本。当時の選手たちに世界はどのように映ったのであろうか。

 対スウェーデン戦で同点の2点目を決めた右近徳太郎は、ベルリン五輪で感じた外国人選手との違いとして以下のように述べている。ちなみに右近徳太郎は、当時からFW、MF、FB、しかも左右どちらでも一流レベルでこなしたという日本が誇る名ユーティリティプレーヤー。対スウェーデン戦ではRIとして出場したが、守備のために精力的に動き回ったかと思えば、攻撃時には最前線まで上がる等、攻守に渡って日本を支えた選手だった。

@ シュート力の強いこと
A 高く浮いた球の処理の上手なこと
B 身体のどの部分でも巧くボールを受けること
C ドッジング(すり抜ける)の巾の広いこと、相手の2メートルくらい前から逃げてしまう
D ボールと相手の間に自分の身体を入れる技術に長けていること
E トラッピングの技術に優れ、相手から軽く逃げること
F バックスは苦しいときでも味方にパスして攻めのスタートを作り、無意味にタッチへ蹴り出したりしないこと
G ドリブルするときの走力に緩急があること
H ボールをキープする以外のプレーヤーの大きさ、早さ、鋭さなど、柔軟性に富んだ鋭いワザで伸縮自在に展開していくこと

 総体的にみれば、サッカーのエッセンスを技術、精神、頭脳の3つに分けた場合、精神力、頭脳の面では引けを取らないものの、技術面で遅れているとの感想も右近は述べている。これらの感想は、当時、右近が賀川浩(注)に宛てて送った手紙に書き記されていたものであるが、その手紙の中で、「先述の彼らのプレーは、皆が既に承知している極めて平凡なことだが、これが、私たちに欠けている」とも語っており、基本技術の大切さを痛感していたことが窺える。



 また、やはり代表選手のひとりであった堀江忠雄は、ベルリン五輪の教訓を朝日新聞に発表しているが、「円熟した技術の必要性」を説くと共に、ボールを持たない選手の動きが巧妙であったとの感想も寄せている。これらは右近が感じたことと同じだった。堀江は、日本のサッカーは技術が未熟でありながら無理に急テンポな攻撃主体のサッカーを目指したため、相手のマークにあうとすぐに攻撃が行き詰まってパスのだしどころが見つけられないと分析している。

 そしてもうひとつの注目すべき発言は、芝生のグラウンドの練習が必要であると堀江が語っていたことだ。外国人の高い技術を目の当たりにした堀江だったが、その技術については日本人の器用さをもってすれば、決して世界水準まで高めることはそれほど困難ではないが、そのためには、日本中に芝生のグラウンドが幾十、幾百も必要だと指摘していたのである。これは「日本のサッカーの父」と呼ばれたデットマール・クラマーが、日本を去るときに日本サッカー界に提言したことと全く同じことだった。

 もちろん、これらのベルリン五輪での教訓は、その後確実に日本のサッカー界に生かされることになる。1936年12月14日付の時事新報には、浜田諭吉が1年間を振り返る論評を投稿しているが、その投稿には、いたずらにスピードのみを追求していた関東の大学が五輪での教訓を生かし緩急をつけたサッカーを取り込み、その結果、大きく成長したことが報告されている。やがて、こうした成果は、当時、イングランド最強のアマチュアチームと呼ばれていたイズリントン・コリンシャンスを破るという形に結実していくのである。

 こうして日本のサッカー界は、1930年代後半にひとつのピークを迎えるのだが、それは、サッカー関係者のたえまぬ努力と練習の賜物であった。ベルリン五輪で世界の一流の技に触れたとは言え、当時の日本が世界と触れ合う機会などはほとんどなかったといってよかった。そんな中で、サッカー関係者たちは外国語の原文でかかれた書物を手に入れては必死に翻訳、その内容をもとに創意工夫しながら技術や戦術を磨いていた。直接触れられないからこそ貪欲なまでにサッカーを追求したのだろうが、その姿には頭が下がる想いだ。



 例えば、ベルリン五輪で初めて体験されたとされる3バックシステムを竹腰茂丸らをはじめとするサッカー関係者が外国の書物を読んで知識として知っていたことは既に紹介したが、実は、ベルリン五輪前の1934年6月に発行された東京府立五中蹴球部のOB会報「蹴球」に、3バックの可能性と、その実践結果について慶應大学の長坂謙三が報告をしている。長坂は書物やイングランドでの試合を見たわけではなく、当時のサッカーの欠点を分析する中で最良のシステムとしての3バックにたどり着いた。

 また、それに遡ること9年前の1925年の2月、公式戦で3バックシステムを取り入れたチームがあった。それは、サッカーの創生期に「打倒、御影師範」を合言葉に関西サッカー界を引っ張り、日本サッカー界に多くの名選手を輩出した神戸一中であった。実際に試合で使ったのは第8回日本フートボール大会の御影師範との決勝戦でのことだった。その当時の様子を、「全国高校サッカー40年史」は次のように記している。

「・・・すばらしいフットワーク、ショートパスの見事さは今もって脳裏に焼きついて忘れられない。2月19日に行われた決勝戦では、3−0で御影師範に完勝したのであったが、前半1−0、後半になって2−0とリードしたとき、あらかじめ研究しておいた対御影師範守備戦法に従って、北川・岩田両FBの間に、同じ5年生でありチームのエースLI若林をさげ、3FB陣を敷いて勝った。これが日本で最初に試みた3バックの最初であったと思う」



 また、基本技術の未熟さを痛感させられた日本であったが、それでも、当時の代表選手たちはかなりの技術も有していたようだ。現在、FWがマーカーの視野の外へ出ることを「消える」と呼んでいるが、これはスウェーデン五輪に出場したCF川本泰三が盛んに口にしていたもので、マークを外し一瞬ノーマークになれば得点できると考え、「消える」ことに熱心だったとされている。

 さらに前述の通り、卓越した技術を持っていたとされる右近徳太郎は、味方の状態に合わせた様々な球種のパスを繰り出していた。その様子を高橋英辰(元・日立監督、元・日本代表監督)は次のように語っている。「代表の練習で、右近が左サイドの私に、前へ流れるスライスのパスをくれた。自分に戻ってくるパスの方がいい、と注文をつけると、次にはフックのボールをよこしてくれた」

 こうした高い技術を習得できたことについては、当時の学制が大きな影響を与えている。当時は高等学校(旧制)への進学は困難を極めたが、この難関を突破した学生たちは、ほぼ無条件で大学に進学していた。そのため16、17歳から22、23歳までの6年間については、打ち込む気にさえなれば徹底してサッカーを追求することが出来た。当然のことながら、高校に進学するものは、そのための名門中学に通っていたわけで、結果的には、中学校時代から大学を卒業するまで、サッカーに関して一貫教育を受けていたという事実があった。

 実際、当時の日本代表選手の面々は中学校(旧制)から全国大会等で活躍した選手たちばかり。中学校時代から、時には同僚として、時にはライバルとして技を磨きあってきた仲間であった。若いうちに技術を磨き、その後、実戦の中から戦術を学ぶ。そうした仕組みが自然発生的に出来上がっていた。ベルリンで日本がスウェーデンを破ったことは確かに奇跡に違いないが、それをなし得るだけの土壌が当時の日本にはあったのである。



 こうした背景が、右近の「精神力、頭脳の面では引けを取らない」という発言や、堀江の「日本人の器用さをもってすれば、決して世界水準まで高めることはそれほど困難ではない」という発言につながったものと思われる。そして、日本はベルリン五輪の教訓を生かし、自らのサッカーを成長させたのであった。しかし、残念なことに、こうして築いた技術や、サッカーに対する姿勢は次世代へ受け継がれることはなかった。

 その後、東京、メキシコの両五輪での活躍があったとはいえ、それはあくまでも単発的なもの。日本サッカー界はJリーグが開幕する1993年までの間、とてつもなく長い低迷期を経験することになる。その間、海外からやって来た指導者たちは、誰もが基本技術の大切さを説き、徹底して技術を教え込んだ。その教えは、紛れもなく彼らがベルリン五輪で学んできたことそのものだったのだ。世界中を巻き込んで勃発した第二次世界大戦は、日本サッカー界にも大きな影を落としたのである。


注)賀川浩:日本におけるサッカージャーナリストの第一人者。現在も日本最年長のサッカージャーナリストとして活躍されている。なお、賀川浩氏の著作については、「FC JAPAN」で、ご覧になれます)
敬称略
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