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 Go for Athens 04/04/11(日) <前へ次へindexへ>
Go for Athens(6) パラダイス


文/TureDure

 女子代表が初めてオリンピック出場を果たしたのは、96年のアトランタ。私がLリーグの会場に本格的に足を運ぶようになったのも96年のことだった。

 当時のLリーグはOKI(廃部)、読売西友(現 日テレ)、日興證券(廃部)、フジタ(廃部)、鈴与清水(廃部)、シロキ(廃部)、プリマハム(現 伊賀)、松下電器(現 高槻)、宝塚、田崎(現 TASAKI)の10チーム。チーム名から分かるように、読売西友以外は企業チーム。午前中社業に就き、午後から練習というチームが多かったし、選手はサッカーに専念し、社業にタッチしない実質的なプロチームもあった。

 大会形式は10チーム2回総当りの前後期制、各期の優勝チーム同士がチャンピオンシップを戦い、年間優勝チームを決めていた。(現在のJ1と同じ)
 リーグ戦は有料試合(1,000円)だった(私はサッカー後援会員だったので、入場料を払ったことはないが)ため、スタンドのある会場が使用され、夏はほとんどがナイトゲームで挙行されていた。多摩、町田、厚木のようにタダ見の可能な会場も数多かったが・・・。

 日興證券にリンダ・メダレン(ノルウェー)、シロキにティファニー・ミルブレッド(アメリカ)、田崎に劉愛玲(中国)、プリマハムにシャーメイン・フーパー(カナダ)など世界強豪国代表のプレーを間近で堪能することもできた。Lリーグが「女子のセリエA」と言われたのも、決して誇大表現ではなかった。

 バブルは既にはじけ、長い景気低迷に突入していたが、活動費として年数億円の予算が確保され、プレーするにはこれ以上ない環境が用意された、まさにパラダイス。96年から98年の3シーズンはチームの入れ替えもなく、一抹の不安を感じながらも、繁栄の上の安定を謳歌していた。



 98年秋、フジタが廃部を発表、1週間後にはリーグ2連覇中の日興證券も続いた。更に暮れにはシロキ、年明けて全日本選手権終了後には鈴与清水が相次いで突然のリーグ脱退を表明。パラダイスは一瞬のうちに崩壊した。

 99年シーズンは外国人選手が去り、2チームが加盟、8チーム体制になったのも束の間、W杯で予選リーグ敗退し、2大会連続のオリンピックへの道が絶たれる(W杯がオリンピック予選を兼ねていた)と、プリマハム、松下電器、宝塚、OKIが続々と廃部を表明、たった2年間で10チーム中8チームから企業が手を引くという、日本スポーツ史上でも稀に見る大撤退劇が繰り広げられた。(このうちOKI以外の3チームはクラブチーム化して存続)

 2000年シーズンは3チームを加え、遠征費節減のため、東西分割+2次リーグ制へ移行。もはや「女子サッカーのセリエA」の面影はどこにもなく、混乱の中、自らの意思に反する形でLの舞台から去らなければならなかった選手も数多くいた。



 その後3シーズン、撤退チームはなく、毎シーズン新規参入チームを迎え、チーム数はL発足以来最多の14で、6月に04年シーズンがスタートする。だが、この3シーズンの安定は、あのパラダイスのそれとはあまりに異なる。「日本女子サッカーのトップリーグ」と言いつつ、実際は選手、スタッフ、チーム関係者、さらにその家族の多大なる犠牲の上に成り立っている。選手はサッカーにかかる諸費用を自ら負担し、仕事や学業をこなした後練習に駆けつける。

 アテネへの切符を手にすることで、これら犠牲の全てから開放されることはないかもしれない。しかし、アテネに行くことで、その犠牲の何%かは確実に軽減される。
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