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 福岡通信 01/07/27 (金) <前へ次へindexへ>

 町のクラブチーム その3 〜普及とスポーツ文化の拠点として


 文/中倉一志
「春日イーグルス」の杉山コーチと「わかばFC」の隈コーチ。お2人のお話を伺って感じることは、Jのユースチームやサッカー強豪校と、町のクラブチームには大きな違いがあるということだ。Jのユースチームはプロ選手養成機関。その目標はプロ選手を育成することにある。段階を進むごとにセレクションが行われ、プロとしてやっていける可能性がないと判断されれば、チームを離れなければならない。その厳しさはプロと変わらない。

 一方のサッカー強豪校は、全国大会へ進出し、全国という桧舞台で好成績を挙げることを第一目標にしている。いわゆるチャンピオンシップを目指す活動と言ってていいだろう。全国から優秀な生徒を集め、本格的な強化活動により優れたチームを作り出す。クラブ員全員にサッカーの楽しさを教えることよりも、厳しい競争をすることでより強いチームを作り出すことに主眼が置かれる。したがって、実力がなければ試合に出ることはない。

 しかし、町のクラブチームは、チャンピオンシップを獲得することや、プロ選手を養成することを第一目標にはあげていない。活動の目的は「楽しむ」ことが大前提だ。もちろん、スポーツの楽しみとは、他のチームと試合をして勝敗を争うことや、自分たちが培った技術を競いあうこと、そして、より大きな大会へ出場するというものも含まれる。決して勝敗を度外視しているわけではない。だが、全員の中にある共通意識は楽しむことだ。

 そうした中から、それぞれの子供たち個別の目標が育ってくる。強豪校へ進学して高校サッカー選手権への出場を目指す者、プロ選手になることを目標とする者、大学でサッカーを続けたいという者もいる。そして、そんなものとは無関係に、サッカーを何時までも続けていたいという者もいるだろう。そうした個々の目標にあわせて正しい選択を助言する。いわば、サッカーの普及という面での役割が非常に強いように思える。



 明治以降、こうした普及活動は学校教育の場を通して行われてきたのだが、様々な事情から学校教育の場でのスポーツ振興に限界と陰りが見えてきた。そして、スポーツの振興と、日本サッカーの強化を2大理念にして立ち上がったJリーグも、その理念とは裏腹に、普及活動にまでは中々手が回らないのが実状だ。そして、日本サッカー協会も、普及部門を持っているとは言え、強化活動と比較すれば、まだまだその活動は十分とは言えない。

「上の方は、1に強化、2に日本をどうするかっていう部分に限られているっていうのはありますね。技術にしてもエリートを作る部分があるし、大会にしてもエリートを作るだけの部分が強い。トレセンなんて、まさにそうですよね。日本代表に出る選手、Jの選手を、どう強化するかっていうところばかり。それ以外の部分の提案は0だから。それもあって、普及の部分にも提案があればまだ納得ができるんだけど」(杉山コーチ)。

 90年代になって行われたトレセン制度の拡充とJリーグの開幕は、サッカーの普及・拡大に大きな成果を見せた。しかし、それは、選手強化の対象を広げるということや、強化面において統一的な指導方針を全国に広めるという側面においてであって、競技人口を増やすという側面においた改革ではない。トップを目指す選手たちには確実に門戸は開かれたが、プロや代表選手に縁がない一般プレーヤーたちを巡る環境には、さほど変化はない。

 もちろん、Jリーグ効果によって、サッカーに触れる人たちや、サッカーのプレー人口は増加した。また、地域密着がサッカーの代名詞になるほど、サッカーやスポーツに対する考え方に新たな概念を作り出したことも間違いない。しかし、気軽に、そして楽しくサッカーがプレーできる場所、難しいことを考えずに、ただボールを追いかけることを楽しむ場所という観点から見ると、まだまだ、十分な環境にあるとはいい難い。



 そんな状況下にあって、普及という側面においてクラブチームが果たす役割は大きなものがある。サッカーが上手じゃなくてもいい。全国大会やトッププロを目指さなくても構わない。ただ、ボールを蹴ることが好きだという気持ちさえあれば、クラブチームに加入できる。途中で振り落とされることはない、レギュラーでないばかりにサッカーがプレーできないなどということもない。誰でもがサッカーに触れることができる場所なのだ。

 こうしたクラブチームでサッカーに親しんだ多くの選手たちは、ここを起点にして様々な道に進んでいくことになる。中には更に高いレベルを求めて旅立っていく者もあるだろう。残念ながら、そうした夢に破れる者も出てくるだろうが、そうした選手たちも再びクラブに戻ってきて、新たなチャレンジを始める。そうして、年齢に関係なくサッカーを続け、何時までもサッカーとかかわりを持てる。そんな場所がクラブチームなのだ。

 いま日本では、保健体育審議会の答申により、2010年までに各市町村に最低ひとつは地域総合型クラブを作ろうという動きがある。キーワードは多種目・多年代。要するに、どんな年齢の人たちでも、そこへ集まれば、どんなスポーツでも楽しむことができる拠点を作ろうというものだ。杉山コーチ、隈コーチは「まだイメージだけで、具体的に動き出してはいない。でも自分たちがそういうクラブになっていこうと思っている」と口を揃える。

「ちっちゃい時からクラブに関わってきて、自分を育ててくれたコーチを見ていて、自然と『わかば』のコーチをしようと思っていたんですよ。仕事でするっていうふうには思っていなかったけど、大学生になったら『わかば』のコーチを自然にしようと思ってた」(隈コーチ)。クラブで育った選手たちが、クラブに戻ってきてサッカーと関わりを持ち続ける。これこそがまさに「生涯スポーツ」といえるのではないだろうか。



 1995年10月14日、この日は95年Jリーグ・ニコスシリーズ第11節、名古屋vs.鹿島戦が国立競技場で開催された。キックオフは19:00。当時、まだ単なるサッカー好きのサラリーマンだった私は、自由席のチケットを握り締めて、朝8:00から国立霞ヶ丘競技場の青山門前に並んでいた。そのとき、たまたま隣に並んでいたのが、市原からきたという16歳の高校生。私とはひと回りどころか、ふた回り近く年の離れた青年だった。

 当時、サラリーマンとしての生活を送っていた私は、これほどまでに年の離れた青年と接触するという機会は全くなかった。しかし、どちらからともなく話し始めた私たちは、やがてサッカー談義に夢中になり、それから開場時間までの9時間もの間、ただひたすら語り合った。サッカーを好きになった理由、好きなチーム、好きな選手、印象に残った試合等、話題に事欠くことはなかった。互いの年齢差も立場も、全く邪魔にはならなかった。

 これは私にとっては新鮮な驚きだった。それなりの勤続年数を重ねていた当時の私にとって、人との関わり合いの中で最も重要だったのは、年齢や地位だった。しかし、サッカーという共通言語を持った私とその青年にとって、互いの地位や年齢など問題にならなかった。サッカーが好きだというだけで、互いに尊重しあい意見を交換する。これは初めての経験だった。あれから6年。中年親父の私の携帯のメモリーは、遂に100件を超えた。もちろん、みんなサッカーの仲間たちだ。

 言葉で言い表すと陳腐になるが、スポーツは、我々にコミュニケーションの場を与えてくれる。地位や年齢といった表向きの関係に縛られたコミュニケーションではなく、互いに1人の個人としての本質的なコミュニケーションを可能にする。そして、ひとつのボールを追って互いに汗を流したら、もっと素晴らしいコミュニケーションが取れることは間違いない。そんな場所を提供してくれる町のクラブチーム。そんなクラブが日本に溢れるようになった時、日本に初めてスポーツ文化が生まれるのだろう。



※このレポートは「online magazine yahoo 2002CLUB」、ならびに「online magazine ISIZE 2002CLUB」に掲載されたものです。
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