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 日本サッカーの歴史 03/12/24 (水) <前へ次へindexへ>

 再び世界の強豪を破る イズリントン・コリンシアンスの来日


 文/中倉一志
 ベルリン五輪で優勝候補のスウェーデンを破るという大金星をあげた日本。次なる目標は、1940年に東京で開かれることになっていた第12回オリンピックだった。そんな背景からか、ベルリン五輪代表選考を機に表面化した東西の対立も次第に解け、組織的に日本代表を強化する必要性が認知されるようになった。それまでの指定試合に勝ったチームを代表チームにするという方法から、所属チームにかかわらず優秀な選手を全国各地からピックアップして合宿を行なうことで強化を図ろうという、現在に近い形に変わっていったのである。

 こうした選手選考と強化方法は、以前から選手の間で望まれていたことであり、1930年の第8回極東選手権の代表メンバーの面々は、当時の代表選考に疑問を投げかけ、全国から選手を選抜して強化する方法を実現しようと約束していたとされている。様々な事情から、その約束の実現には8年の歳月が必要だったが、ようやく日本にも代表チームが常設されることになった。そして1937年、山中湖において初めての代表候補合宿が行なわれた。

 そんな時、英国のイズリントン・コリンシアンズというクラブチームが日本にやってくるというニュースを新聞記事が報じた。記事によれば、クラブチームが船で世界を一周して各国チームと親善試合をするという初めての試みであり、オランダ、スイス、イタリア、エジプト、インド、マレー、香港を経て日本を訪問、その後、ホノルルからカナダ経由で英国に帰るというものだった。

 その後、同クラブから大日本蹴球協会宛に親善試合を行ないたいとの正式な書信が届き、これを協会が受諾。1937年4月7日に神宮競技場で1試合を行なうことが決定した。しかし、当時は既に戦時色が濃くなっていた時期。「鬼畜米英」が声高に叫ばれている時期でもあった。同クラブも、蹴球協会も親善とスポーツの純粋性を前面に出して試合を実現させたが、その実現には様々な困難があったことは想像に難くない。当時の深尾隆太郎蹴球協会会長を中心として奔走した結果の親善試合の実現だった。



 日本にやって来た同クラブの試合結果は、81戦して58勝16分7敗というもの。日本側は、「代表チームを常設しており、いつでも遠征に応じられる自信がある」とはしていたものの、「サッカーの母国」英国からやって来たチームが強豪であることは十分に承知していた。しかし、当時の日本の情勢から、間違っても日本が負けるなどということはあってはならない。そのため、日本代表ではなく全関東学生選抜を編成して対戦することになった。

 全関東学生選抜のメンバーは下記の通り。もちろん、実質的な日本代表であった。

GK 津田幸男
FB 吉田義臣 菊地宏
HB 森孝雄 種田(おいた)孝一 金容植
FW 篠崎三郎 播磨幸太郎 二宮洋一 加茂健 加茂正五
  
 ベルリン五輪ではスウェーデンに勝ったとは言え、続く2回戦ではイタリアに大敗したため、国内では日本の実力に対し半信半疑の思いを持つ者もいたが、全関東学生選抜は、そんな不安を吹き飛ばすほどにイズリントン・コリンシアンズに大勝。改めて、日本のレベルが高いことを証明して見せた。



 イズリントン・コリンシアンズの特徴は、とにかくDFが強固であったということだ。そのポジショニングは的確で、CFを務める二宮と播磨が2人がかりで崩しにかかってもびくともしない。やむを得ず、二宮が中央へ向けて突破を図り、そのこぼれ球を播磨が拾って前へ出る以外に、これといった攻め手を見つけることが出来なかった。そこで全関東学生選抜は、右サイドから攻撃を仕掛けておいて、隙が出来た反対サイドを崩す作戦に出る。

 この攻撃が見事に功を奏した。日本の先制点は39分、LH金容植のドリブルからチャンスを作ると、そのボールをLWの加茂正五にパス。左サイドから加茂正五が上げたクロスボールにCF二宮が頭であわせた。そして、守ってはバックスとGKの好守備でイズリントン・コリンシアンズを完封。前半を1点のリードで終えた。さらに後半に入っても攻撃の手を緩めない全関東学生選抜は、次々とゴールを重ねることになる。

 まずは47分、播磨からのボールを受けた二宮がドリブルで仕掛けから、左サイドの加茂正五にパス。更に加茂正五もドリブルで相手フルバックを崩し、最後はGKをつり出してゴール左隅にボールを流し込んだ、53分にはPKのピンチを迎えたが、これはGK津田が右手でセーブ。イズリントン・コリンシアンズに反撃の機会を与えない。そして58分、加茂健、正五のパス交換からチャンスを作ると、最後は二宮からのスルーパスを加茂健が決めて、決定的な3点目を奪った。

 そしてだめ押しは88分、播磨、篠崎とパスをつないでから左サイドの加茂正五へサイドチェンジ。そこには2人のバックスがカバーに入っていたが、加茂正五は落ち着いてインサイドキックで2人の頭上を抜くループシュートを放つ。これが見事にゴールマウスに吸い込まれた。結局、試合結果は4−0。各国を回って行なった親善試合で圧倒的な強さを誇ったイズリントン・コリンシアンズを、関東学生選抜は一蹴したのだった。



 半年をかけた長旅の影響で、イズリントン・コリンシアンズに疲労に色が濃かったことは否めない。しかし、世界の強豪を一蹴したという結果は、当時の日本のサッカーの実力が高いレベルにあったことを改めて示すことになった。ベルリン五輪開催中に、ドイツの週刊誌フスバル誌がGK佐野を参加チーム中トップのGKと評し、他のドイツの批評書が大会で活躍した30余人の選手の中に、GK佐野、LW加茂正五、RI右近を選んだのも、決して社交辞令ではなかった。

 この対戦の結果は、日本サッカー関係者に東京五輪での活躍を期待させるのに十分なものであった。おそらく、ベルリンの奇跡の再現を期待し、更にはもっと勝ち進むことも考えたことだろう。しかし、五輪は東京へはやって来なかった。それどころか、この試合を最後に、日本は長い間、国際試合から離れることになる。軍部が権力を掌握し、海外への進行を強めていた日本は不幸な戦争へと突き進んでいく中でスポーツを崩壊させてしまったのだ。

 1931年9月18日に関東軍が満州事変を引き起こしてから始まった戦争への坂道を、日本は加速度をつけて転がり落ちていった。1937年には盧溝橋事件、上海事件が発生し、さらには、華北派兵、大本営設置、南京占領と軍部関係の事件が続発し、日本はもう後戻りで着ないところまで踏み込んでしまっていた。そして日本は1938年に東京五輪の開催を返上する。日本だけではなく、世界中を巻き込んだ太平洋戦争はすぐそこまで迫っていた。
敬称略
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