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 サッカーのある風景 03/10/24 (金) <前へ次へindexへ>

 私のフットボール日記 その5


 文/畦地治
「修学旅行とサッカー」

 この9月17日(水)、18日(木)と京都・奈良へ修学旅行に行ってきました。この修学旅行の最中に韓国U-22対日本U-22代表の試合がありました。試合内容は大人と子どもの試合だったようですね。しかたがありません。韓国のこの年代は史上最高とも言われています。それに比べて日本は谷間の世代と言われています。前回の五輪世代の対戦では日本が圧勝しました。東京で何と4−1だったかな?ソウルで福田健二(当時・名古屋)のゴールで1−0と連勝しました。当時は「よし、これで完全に韓国を抜いた」と思いました。しかし、あの当時の日本のメンバーを思いだして下さい。中田、稲本、中村、小野はもちろんのこと小笠原もいましたし、そうそうたるメンバーで、こちらも史上最強だったのではないでしょうか。今回はそんな韓国相手に東京で1−1、ソウルで1−2なら上出来だと思います。悲観材料をさがせばいくらでもありますが、サッカーとは楽しいものです。いいところをみつけましょう。

 ところで修学旅行といいますと私には一つの思い出があります。忘れもしない1985年10月26日(でしたっけ?)、ドーハの悲劇以前に日本がもっともワールドカップ出場に近づいた時でした。みなさんには「木村和司の伝説的なフリーキックが決まった日韓戦」といえば分かっていただけるでしょうか。「それがあなたの修学旅行とどういう関係があるの?」と言われてしまいそうでうね。それではご説明しましょう。



☆86メキシコワールドカップアジア第1次予選☆
 この年は翌年の1986年メキシコワールドカップの予選の年でした。この予選でサッカーファンのだれもがワールドカップ出場まで後一歩と迫ることになるとは思ってもいませんでした。この大会はどういうわけかアジアを東と西にわけ、それぞれの地域を勝ち上がったチーム(2チーム)がワールドカップに出場する、という予選でした。つまりサウジアラビアやイランと対戦しなくてもいいのです。しかし、日本の1次予選には北朝鮮がいました。この組み合わせを知った時点で多くのサッカーファンは「まただめだ」と思ったものです。(実際90年ワールドカップ1次予選で再び北朝鮮と同じ組になり、あえなく北朝鮮に敗れ去っている)

 日本と北朝鮮の第1戦は1985年3月21日に東京国立競技場で行われました。私は当時幼稚園の年長になっていた長男を無理矢理連れだし、東京へ向かいました。当日の東京は雨、寒い日でした。寒いと言えばスタンドも寒かった。観衆は2万人ぐらいだったでしょうか?しかも在日朝鮮の人の方が多い状況でした。グランドはぐちゃぐちゃ。結果は日本の縦パスがゴール前の水たまりでボールが止まり、当時のFW原(現:FC東京監督)が一世一代のボールを浮かすトラップでDFをかわしゴール。日本が1−0で勝ってしまったのです。われわれファンは「原のゴール、アシスト水沼(分かりますか?みずたまりでボールが止まったために日本のゴールが生まれたので・・・)」と呼んでいるゴールです。

 今度はアウェイでの北朝鮮戦。NHKが同行するというので、「ひょっとしてテレビ中継でもあるか」と期待しましたが、中継はありませんでした。私は後に、日本サッカー狂会の仲間から「在日朝鮮人の人が撮った」というVTRで試合の内容はしることができました。一方的に押された試合だったが、GK松井の神がかりてきなセーブの連発で0−0の引き分け。ということで1次リーグを突破してしまいました。



86メキシコワールドカップアジア2次予選(対香港)
 続いて2次予選。北朝鮮に勝ったといっても「次には中国が待ちかまえている」はずでしたが、何と中国は1次予選で香港に不覚をとってしまい、日本の相手は香港になりました。「ひょとしたら勝てるかもしれない」と思いました。しかし、あくまでも「ひょっとしたら」ではありましたが・・・。

 2次予選は香港とのホーム&アウェイで行われました。第1戦は1985年8月12日に神戸ユニバー競技場で行われました。この競技場は、間近にひかえたユニバーシアード大会のメイン会場のために新設されたばかりでした。何としても神戸に行かなくてはいけない。しかし、我が家は三男が産まれたばかりで子どもをおいて出かけるわけには行かない。それもで「行きたい」。結局当時5歳と3歳の長男と二男をつれて関西へ出発。関西で遊んだあと、ほかの用事で大阪へ来ていた私の父に子どもをあずけました。父は孫2人を受け取ったら大阪在住の私の兄の家へ子どもたちを連れて行ってくれました。私は試合後兄の家にとまり、翌日も子どもの世話をして帰宅しました。

 話を試合に戻します。その時の私の気持ちは「どんな形でもいい。相手の自殺点でもいい。なんでもいいから勝ってほしい」というものでした。当時の日本サッカーの実力は、香港相手にも不安になるほどの実力だったのす。
 結果は3−0の快勝でした。蛇足になりますが、この日は日本サッカー狂会の仲間がバスで東京から駆けつける予定でしたが、お盆の最中ということで渋滞に巻き込まれ競技場に到着したのがハーフタイムの時でした。それでも「やあやあ」とみんなに会えるという古きよき時代でした。

 蛇足のその2。この日は山崎豊子の作品「沈まぬ太陽」でも注目をあびることになる日航機墜落事故の日でもありました。
 アウェイの香港戦も2−1で勝利をし最終予選の韓国との一騎打ちとなったのでした。



☆86メキシコワールドカップ最終予選は韓国との大一番☆
 最終予選は韓国との一騎打ちになりました。第1戦は1985年10月26日(日)に東京国立競技場で行われました。もちろん上京して観戦する・・はずだったんですが、何とその日が当時私が勤務していた小学校の修学旅行の日だったのです。6年生担任ですからどうすることもできません。この時ほどおのれの不幸をのろったことはありません(?)。

 なんとしてもこの最終予選に自分も参戦したい。そう考えました。そこで私が行ったことは、クラスの子どもたちに呼びかけて一緒に紙吹雪を作り国立競技場に届けようということでした。子どもたちとそして保護者の方も巻き込んでの「紙吹雪作成大作戦」が展開されました。段ボールいっぱいになった紙吹雪に手紙をそえて日本サッカー狂会の友人で当時常任幹事でもあった東京の後藤健生氏に送りました。

 修学旅行当日、バスに乗るとまずガイドさんに「このバスはテレビは見えますか」とたずねました。「ビデオは見えますが・・・」との返事。がっくり。高速道路で休憩に入るたびに家へ電話
「試合どうなってる?」と私。
「すっごいい試合だよ」と日頃はサッカーに関心のない妻も興奮気味。
「内容なんてどうでもいいから今何対何?」
「日本が負けてる。でもすっごくいい試合」
いい試合でも負けていればがっくり。

 ということで私はあの木村和司の伝説のフリーキックで有名なあの試合を生で見ていないのです。と、これが痛恨の私とサッカーと修学旅行の思い出です。今年の修学旅行が日本五輪代表の日韓戦と重なり18年前の日韓戦を思い出したのでありました。



☆おまけ 今年度の天皇杯は名古屋が優勝の法則☆
 今回はおまけをつけてみました。今年度の天皇杯は私がサポートする名古屋グランパスエイトが優勝します。名古屋優勝には法則があるのです。名古屋は過去に2回優勝しています。1996年元旦にベンゲル監督のもと優勝しました。2回目は2000年元旦にジョアンカルロス監督で優勝しました。名古屋優勝の法則は以下の通りです。

@その年度に監督が交代している
Aセカンドステージで調子をあげ、その勢いで天皇杯に臨んだ
B決勝の時(元旦)がオリンピックイヤーである

 こう見てきますと、1996年はアトランタ五輪の年、2000年はシドニー五輪の年、そして迎える2004年はアテネ五輪の年。監督もネルシーニョに変わった。セカンドステージの調子もまあまあ。これは天皇杯優勝の法則にぴったりあてはまるではありませんか。
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