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 サッカーのある風景 03/11/14 (金) <前へ次へindexへ>

 覚悟しておきましょう ワールドカップ予選に向けて


 文/貞永晃二
 いきなりですがまずはクイズを出してみますね。1966年(オランダ)、70年(フランス、スペイン、オランダ、アルゼンチン)、74年(イングランド、フランス、スペイン)、78年(イングランド、ウルグアイ)、82年(オランダ、ウルグアイ)、86年(オランダ)、94年(イングランド、フランス、ウルグアイ)、98年(ウルグアイ)2002年(オランダ)。

 1966年以降のワールドカップ・イヤーであるいうことはすぐおわかりでしょう。そうするとその後ろの( )の中の国名はどういう国でしょうか? 

 答えは地域予選で敗退し、本大会に出場できなかった主なサッカー強国です。2003年現在、強国と考えられている国であって、当時の強国でないことはお断りしておきます。
 さて私が何を話したいのか、お分かりでしょうか。ブラジル、ドイツ、イタリアを除けばこれほどの「フットボール・ネーション」でも決して毎回出場しているわけではなく、地域予選で苦汁を飲まされた経験がしばしばあるんだということを知っておいて頂きたいのです。常勝なんてありえないことです。そしてイタリアでさえも、もっと時代をさかのぼれば58年大会予選で小国北アイルランドに出し抜かれ敗退した経験があるのですよ。



 母国イングランドを例にとってみましょう。脱退していたFIFAに復帰(1946)し、50年ブラジル大会に初出場を果たします。しかし、アメリカに敗れるなど1勝2敗で敗退。54年大会からはベスト8、一次リーグ敗退、ベスト8ときて、参加5回目ようやく地元開催の66年大会で初優勝を遂げるイングランド。自信満々で連覇を狙った70年メキシコ大会では、前回大会決勝戦を戦った西ドイツにまたも延長の激闘の末、今度は逆転負けを喫しベスト8で帰国を余儀なくされます。

 そしてついに74年の予選では東欧の雄、新興国ポーランド(72年ミュンヘン五輪金メダル)にアウェーで敗れ(0−2)、勝てば勝ち抜き決定というホームの聖地ウェンブレーで一方的に攻めこみながら得点はわずかアラン・クラークのPKの1点のみ、1−1のドローを演じ予選初の予選落ち。宿敵国西ドイツで開催された本大会を指をくわえてながめているしかありませんでした。雪辱を期した78年の予選では強国イタリアと同組。アルゼンチンでの本大会で旋風を巻き起こし(4位)、82年マドリッドで世界チャンピオンに就任することとなるイタリアの、そのベースとなるチームに出場権を奪われてしまいます。

 82年は本大会参加国数が16から24へと拡大された恩恵でなんとかチケットを得ます。86、90年と3大会連続出場を果たしますが94年はオランダと同組となり不利な判定もあって勝ち抜けません。そして98年、2002年と連続出場を果たしています。サッカーの母国と呼ばれながら、3回も本大会出場を逃しているのがイングランドなのです。



 オランダはどうでしょうか。強国と考えられるようになったのは明らかに74年からです。ヨハン・クライフという超人を得て38年以来の久々の出場を果たすと、アヤックスがヨーロピアン・チャンピオンズカップで示していた高度で良質なトータル・フットボールで南米の強国ウルグアイ、アルゼンチン、ブラジルを翻弄し決勝にまで登りつめミュンヘンでホスト国西ドイツの奇才ゲルト・ミュラーのリトル・ゴールに涙を飲みます。

 つづく78年大会はクライフの出場辞退で前回大会ほどの驚きを与えることはできませんでしたが、想像を絶するロングシュートの威力で相手を屈服させながらまたも決勝へ。紙吹雪まみれのピッチで延長突入の激戦、30年ウルグアイ大会決勝に敗れて以来悲願となった初優勝を目指す地元アルゼンチンにマリオ・ケンペスの2発で一敗地にまみれました。

 2大会連続準優勝国でありながら、しかも本大会出場国数が8国増えた82年はフランス、ベルギーにその道を阻まれてしまいます。86年は若いルート・グーリットを擁しプレーオフには残りましたが隣国ベルギーにアウェー・ゴール・ルールで屈服します。90、94、98年とアフリカにルーツを持つ選手たちをうまく融合し3大会連続出場。しかし出れば優勝候補に上げられるほどの実力国ながらアイルランドにその道を阻まれ、日韓大会は部外者として傍観しなければなりませんでした。



 次にアジアについて。アジア地域からの本大会への道は非常に厳しいものです。初登場は38年大会、オランダ領東インド(現在のインドネシア)。次の50年は直前に出場が決まっていたインドが棄権しました。現在の盟主、韓国が日本を破って54年に初出場、しかし結果は2敗、無得点、16失点という惨めなものでした。58年、62年はアジアで勝ってもヨーロッパ勢と戦うレギュレーションで本大会出場はなりませんでした。

 つづく66年大会は、アジアの謎の国が世界中に驚きを与える大会となりました。北朝鮮(次点はオーストラリア)がイタリアを1−0で下すアップセットでベスト8進出、準々決勝でモザンビークの黒豹エウゼビオ擁するポルトガルを3−5と苦しめました。一時は3−0とリードしたものの結果は大逆転をくらってしました。

 70年はアジアといってもイスラエル(のちにAFCからUEFAへ移ります、2位はオーストラリア)で2分1敗。74年はオーストラリア(2位は韓国)で1得点もあげられずに1分2敗。78年はイラン、韓国、クウェート、オーストラリア、香港の5ヶ国のホーム&アウェー2回戦総当りでイランが6勝2分でダントツで勝ち抜き(2位は韓国)ましたが、本大会ではまたも勝利には遠く1分2敗。

 82年はクウェート、ニュージーランド、中国、サウジアラビアの4ヶ国のホーム&アウェー2回戦総当りでクウェートとニュージーランド(次点は中国)。中国はニュージーランドとのプレーオフで敗北し、日本よりも早い本大会進出はかないませんでした。本大会でのクウェートは1分2敗、ニュージーランドは3連敗に終わりました。86年はイラク(2位はシリア)と32年ぶりという悲願を叶えた韓国(2位は森孝慈監督の日本)。しかし、本大会ではイラクは3連敗、韓国も1分2敗というものでした。

 90年は韓国、UAE、中国、サウジアラビア、カタール、北朝鮮の6ヶ国がシンガポールでの集中開催の1回戦制で韓国とUAE(3位は中国)が勝ち抜きました。本大会では韓国、UAEともに3連敗という絶望的になるほどの成績に終わりました。
 94年以降の予選経過は皆さんよくご存知でしょう。94年は韓国とサウジアラビア(3位はオフトジャパン)。韓国は2分1敗と健闘しました。サウジアラビアは初出場ながらもベルギー、モロッコから2勝をあげてベスト16入りを果たしました。98年は日本、韓国、イラン(次点はオーストラリア)。2002年は日本、韓国、中国、サウジアラビア。



 さて、日本代表が初出場を決めた97年、アジア最終予選での成績をご記憶でしょうか。8戦3勝1敗4引き分け(ホームで2勝1敗1引き分け、アウェーで1勝3引き分け)でした。かろうじて3位に滑り込み、ジョホールバルでの第3代表決定戦でイランをゴールデン・ゴールで降したのでした。比較的サッカーに関しては楽観的で、決して一喜一憂しないようにつとめていた私も、毎週毎週胃の痛くなるような試合の連続であったことを懐かしく思い返すことができます。「負けない」ことが最後の最後に重要となってくることを身体で理解できた戦いでした。

 そして忘れられないあのカタール・ドーハです。93年Jリーグ開幕。ついに果たしたプロ化を起動力にハンス・オフトという名コーチが「夢」を現実にする一歩手前まで連れて行ってくれました。初戦サウジアラビアにスコアレス・ドロー。つづくイラン戦を1−2で落としたことが結果的には大きく響いてきます。地元紙が「KING」と伝えたカズの2得点で北朝鮮を3−0で降し、韓国戦にもカズの決勝ゴールで歴史的な完勝をとげます。そして、あのイラクにインジュアリータイムで追いつかれ2−2の引き分け。この最終予選も2勝1敗2分の成績です。

 いよいよ来年2月から一次予選が幕を開けます。過去2回の予選を思い出しても決して楽観できる戦いではありません。韓国、中国、中東の強者たちに加え、旧ソ連の中央アジア諸国もてぐすねをひいているのが最終予選。その結末は神のみぞ知るといったところでしょう。最悪、本大会出場の道が絶たれたとしたら、あなたはどうしますか?サッカーへの興味を失ってしまいますか?

 イングランドやオランダと同様に最初にあげたフットボール・ネーションも何度も予選敗退を経験しています。そのたびにフットボール・ファンは次回大会での自国の活躍を期待して4年間待ち続けるものです。あなたも日本の予選敗退を今のうちから覚悟しておかれてはいかがですか?覚悟できている人が多ければ多いほど日本もフットボール・ネーションに近づいていくわけですから。2010年なんてあっという間にやってきますよ。
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