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 サッカーのある風景 04/02/13 (金) <前へ次へindexへ>
巧みな技を披露する音サッカー元日本代表の天川さん。

 全ての人にサッカーを


 文/中倉一志
 音サッカー(ブラインドサッカー)と呼ばれるスポーツをご存知だろうか。
視覚障害者の人たちが楽しめるように工夫されたサッカーのことで、プレーヤーは鉛の鈴の入ったボールが発する「カラカラ」という音を頼りにボールを追う。IBSA(国際視覚障害者スポーツ協会)が定める統一ルールの原型は1980年頃にスペインで生まれたと言われ、その後、ヨーロッパや南米、さらにはアジア諸国にまでひろがり、現在では30カ国以上の国でプレーされている。第1回世界選手権が行われたのが1998年。2000年には第2回大会が実施され、サッカー王国ブラジルが2連覇中だ。

 ルールはフットサルに良く似ている。試合は鉛の鈴が入った4号球を使用し、ゴールマウスの大きさもフットサルと同じ。フィールドプレイヤー4人、GK1人の計5人でチームを編成する。1チームの登録数はフィールドプレイヤーが8人までで、GKは2人。試合中の交代は何度でも自由に行える。ピッチの大きさはフットサルとほぼ同様だが、タッチラインには保護用のフェンスを張って安全を確保するとともに、壁を越えない限りプレーは途切れず、スムーズな試合進行が出来るように工夫されている。公式戦は前後半25分、計50分で行なわれる。

 ボールやゴール、相手を視覚で確認できないため、いくつかの特別ルールが用意されている。まず、全ての選手の視力的公正を計るためにプレーヤーはアイマスクを着用。ただしGKは正眼者ないしは弱視者が行いアイマスクは着用しない。危険防止のため、選手はヘッドギアを着用し、プレー中は頭を下げてプレーすることが禁じられている。また、GKが動ける範囲は5m×2mとかなり限定されているが、これはゴール前での迫力あるプレーを多くするためのものだ。

 プレー中の選手の頼りは音。それぞれのゴールの後ろには「コーラー」と呼ばれる、選手をゴール方向に誘導する役割を持つ人が待機する。また監督はハーフウェイラインそばから、GKはゴールマウスの前から声を出す。ボールを保持する相手に向かうときは必ず特定の言葉をかけなければならない。そして、意外に思われるのが触感の重要性。選手たちはフェンスに触れることで自分の位置を確認し、どちらかの手を斜め下にして探るように走ることでプレーヤー間の接触による怪我を回避するように工夫している。



アビスパ福岡の選手とパス交換する盲学校の生徒たち
 その音サッカーの告知を兼ねて、「アビスパ福岡の選手とともに楽しむ視覚障害者サッカー・チャリティイベント」(主催:チャイルドライク・アンド・スポーツ、後援:三輪町教育委員会、共催:アビスパ福岡選手会)が8日、福岡県三輪町にある三輪小学校で開催された。「チームの数は全国でも数えるほどですが、九州には音サッカーのチームがないんです。まずはチームを作りたい。そのために、皆さんに音サッカーを知ってもらうことから始めようということです」。渡辺修さん(チャイルド・アンド・ライクスポーツ代表取締役)はイベントの趣旨を、そう話す。

「自分はサッカーが好き。サッカーがやりたい」。非常勤の講師として通っている盲学校の生徒から言われたひと言が音サッカーと出会うきっかけになった。「視覚障害者にサッカーが出来るんだろうか」。視覚障害者の教育に携わる渡辺さんでさえ、身体を動かすといってもウォーキングくらいじゃないかというのが正直な思いだった。ところが調べていくうちに音サッカーに出会う。「目の不自由な方の中には、自由に動けないと感じていらっしゃる方もいると思います。そういう方にもサッカーを通して楽しく身体を動かすことが出来るんだということを感じてくれればと思います。そしてコミュニケーションの手段のひとつとして広まってくれれば」

 ところが日本では音サッカー用具は製造されていない。用具は日本視覚障害者サッカー協会(事務局・神戸市)を通して韓国から輸入することになるのだが、ボール1個が4000円、アイマスクとヘッドバンドのセットも1組4000円もする。また、日本には音サッカー用の設備がなく、現在はフェンス代わりにロープを張って代用しているのが実態だった。「音サッカーをするためには用具が必要なんです。また、5人集まれば出来るというものでもない。コーラーをはじめ多くのボランティアが必要です。こういう活動を通して多くの人に知ってもらいたい」。チャリティ募金は各団体に寄付し、今後は月1回程度の練習を重ね、九州にチームを作ることを目指す。



チャリティイベントには多くのちびっ子プレーヤーたちが参加した。
「日本には7チームか、8チームあります。大阪、神戸、東京、それから新潟にも出来ました。負けていられないんで九州にもチームを作りたいですね」。そう話すのは音サッカーの元日本代表の天川敬史さん。熊本在住だが神戸のチームに所属し時間を見つけては神戸へ通ってプレーを続ける。視力を失ったのは大学卒業の時。そして神戸で視覚障害者のための訓練を受けているときに音サッカーと出会った。「小中学校の時は見えていたんでサッカーをしていました。ですから割とすんなり馴染めました」。この日は、音サッカーのデモンストレーターとしてドリブルやパスを披露したが、視覚障害があるとは思えない個人技の数々に会場からはどよめきさえ起こった。

 音サッカーは、今年アテネで行われるパラリンピックの正式種目になった。「代表に復帰してアテネを目指さなければいけませんね」。そう語りかけると意外な答えが天川さんから返ってきた。「いまは柔道を主にやっていて、柔道でアテネに行くことが決まってるんです。でも、柔道が一区切りついたらサッカーに専念しようと思っています」。何事もないかのようににこやかに、そしてさらりと話す天川さん。その様子に言葉が詰まった。「障害を持っている方だから」。そう必要以上に構えること自体が間違っている。お互いに欠点を補い合うことは必要だが彼らは決して特別じゃない。そんな思いがこみ上げた。

 この日、福岡高等盲学校、北九州盲学校、柳川盲学校の生徒の皆さんがイベントに参加していた。デモンストレーションの後、アビスパ福岡の選手たちとパスを交換して初めて音サッカーに触れた。その光景を見て驚いた。最初は戸惑っていたようだったが、すぐにボールの感触を掴み、簡単にボールを止め、そしてパスを出した。宮崎光平選手とパス交換をしていたある生徒は、「目は見えないけれど楽しかった。宮崎選手がとても優しかった」と、この日の感想を話した。サッカーは彼の心を確実に捉えたようだ。



サイン会に出来た長蛇の列。
「普通の人と変わらない状態でドリブルやパスだしたりしてたんですね。目が見えなくてもサッカーが出来るんだと感じました」。この日、イベントに参加した藏田茂樹選手は語る。同じくイベントに参加した川島、平島、宮崎、福島の4選手も同じように口にした。「目が見える、見えないに関係なく、サッカーというものを楽しんでもらいたい。ボールに鈴がついて音がなるだとか、様々な用具を利用することで視覚障害者の方にも、もっと、もっとサッカーを楽しんでもらえるんじゃないかと感じました」(藏田茂樹)

 チャリティイベントの中にはアビスパ福岡のホームタウン推進部の4人のコーチ、そして参加した5選手が行うサッカー教室があり、多くのちびっ子プレーヤーたちが参加していた。彼らも音サッカーのデモンストレーションを見学し、そして音サッカー用のボールを蹴った。彼らの目にも、視覚障害者の方にもサッカーが出来るということが焼きついたことだろう。いつの日か、誰もが同じコートで音サッカーをプレーできれば最高だ。

 1980年代の中頃、千葉県立盲学校に日本で初めての音サッカーチーム「ペガサス」が設立された。当時は音サッカーという概念もなければ、統一ルールもない頃。しかし、子供たちのサッカーがしたいという強い気持ちがチームを立ち上げる原動力になった。残念ながら、生徒数の減少などの理由で、ペガサスは2000年に活動を停止したが、翌年には日本から視察団が韓国を訪れ情報収集と交換を行ったことで日韓交流がはじまり、その年の11月に大阪で講習会が開かれて日本でも本格的な音サッカーの歴史が始まった。ゴールはまだまだ先だ。しかし、確実に一歩ずつ歩んでいって欲しい。そして1日も早く九州にチームが出来るように応援したい。
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