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 福岡通信 01/09/21 (金) <前へ次へindexへ>

 ちょっと早いけれど、天皇杯とその歴史。


 文/中倉一志
 去る9月15日、沖縄県は北谷陸上競技場で第81回天皇杯全国サッカー選手権の代表決定戦が行なわれ、かりゆしFCが昨年の覇者である海邦銀行を下して、初の沖縄県代表の座を手に入れた。かりゆしFCのテクニカルディレクターは、知る人ぞ知るラモス瑠偉。自らも後半にはピッチに立ってイレブンを鼓舞した。これで、天皇杯本選出場チーム全てが決定。各チームは「元旦の国立」を目指して、11月25日から熱い戦いを繰り広げることになる。

 今年の天皇杯本選に出場するのは、各都道府県代表の47チームに、Jリーグの28、JFL代表2、大学代表2、そして高円宮杯優勝チームを加えた80チーム。各地区の予選に参加した総チーム数は6,000を超え、天皇杯は名実ともに日本サッカー界最大のイベントとしてサッカーファンに知られている。しかし、全てのチームに天皇杯出場への道が開かれたのは1972年度の第52回大会から。天皇杯は様々な道を辿りながら、ここまで成長してきた。



 記念すべき第1回大会が開かれたのは1921年11月。設立されたばかりの大日本蹴球協会は全国65チームに招待状を発送。東部地区は20チーム、中部地区は3チームの参加で予選を行い、近畿・四国地区、中国・九州地区は推薦により、本選出場チーム4チームを決定した。本選は、中国・九州地区代表の山口高校が棄権したため3チームによるトーナメント戦で行なわれ、東京蹴球団が栄えある第1回大会優勝チームとして歴史に名を刻んだ。

 1924年には、明治神宮競技場が完成したのに伴って、総合スポーツ大会として明治神宮大会(現在の国民体育大会の前身)が開催される運びとなったが、大日本蹴球協会は設立されたばかりで、同一年度に全国大会を2つも開催する余裕はなかった。そのため、明治神宮大会を全日本選手権大会の兼務大会として開催。その後、明治神宮大会が隔年開催になったため、明治神宮大会が開催されない年度は、全日本選手権を単独開催していた。

 しかし、当時の明治神宮大会は、スポーツに対する国家統制の歴史と同軸にあり、国家主義・軍国主義的色彩が強く、蹴球協会の独自性を打ち出すことは困難であった。そこで、第15回大会(1935年度)から全日本選手権は明治神宮大会から独立。そのため、日本一を決定する大会は、6月に行なわれる全日本選手権と、秋に行なわれる明治神宮大会の2つが共存する形になる。ただし、当時は明治神宮大会を重視する傾向が強かったようだ。

 その後、不幸な戦争により全日本選手権は中断。イングランドから寄贈されたFA杯は戦争の混乱期に軍部に拠出される等、日本サッカー界にとっても暗い時期を過ごしたが、戦後まもない1946年5月5日、東大御殿下グラウンドで全日本選手権は復活する。まだ予選を行なう余裕がなかったため、関東、関西の代表チーム同士で戦うという形式が取られたが、選手たちはボールを思う存分追いかけて、平和の味をかみ締めていたという。



 さて、サッカーファンの間でお馴染みの、全日本選手権優勝チームに授与される天皇杯。昨年は、鹿島アントラーズが、その栄誉を獲得したが、全日本選手権優勝チームに天皇杯が授与されるようになったのは、1947年4月3日に昭和天皇が東西対抗戦をご覧になったのがきっかけだった。東西対抗戦とは、1932年に始まった関東・関西の選抜チームの対抗戦で、戦前の一番のビッグゲーム。最も人気があり、技術的にも最高の試合とされていた。

 この試合は、あらゆるスポーツを通して戦後初めての天覧試合。試合後、グラウンドに降り立たれた昭和天皇は、協会関係者や選手たちを激励された。この出来事をきっかけにして、宮内庁のはからいで1948年7月2日に天皇杯が下賜。その後、東西対抗戦の勝者に授与されていたが、第31回(1951年度)大会から全日本選手権優勝チームに授与されることなり現在にいたっている。ちなみに、戦後各競技団体に下賜された最初の天皇杯である。

 こうして新たな歴史を歩み始めた天皇杯は、全国地区16代表によるトーナメント戦で行なわれていたが、1965年の日本リーグの発足により大会出場資格を変更。当時、日本サッカー界の頂点にあった大学と、日本リーグからチームを選抜して8チームによるトーナメントで争われることになる。これは、日本サッカー界の強化を狙っての大会方式の変更だった。そして48回(1968年度)大会から、決勝戦を元旦の国立で開催するようになった。

 しかし、元はといえばイングランドから寄贈されてきたFA杯が全日本選手権開始のきっかけ。しかも、イングランドのFAカップを参考にして始められた大会がオープン化するのは自然の流れだった。オープン化されたのは第52回(1972年度)大会から。この年は、全国16地区の予選を勝ち抜いたチームに日本リーグ所属の8チームを加えた24チームで争われた。そして翌1973年、全てのチームが予選から出場する完全オープン化に踏み切った。



 このオープン化がきっかけになって、天皇杯は飛躍的に拡大していく。オープン化元年となった第52回(1972年)大会に参加した総チーム数は75(地域予選含む)。その後、参加チームは確実に増加の一途をたどり、第75回(1995年度)大会には2,800チームを数えるまでになった。そして迎えた第76回(1996年度)大会で、日本サッカー協会は更なるオープン化を実施する。そして、この改革が天皇杯に新たな歴史を刻むことになる。

 「すべてのプレーヤーにチャンスを与えたい」という天皇杯の理想の元、日本サッカー協会は全国9ブロック制を廃止。全国47都道府県から代表チームを選出するとともに、第2種チーム(18歳未満・高校生)への門戸開放を行なったのだ。そして、各都道府県代表チームに、J1、J2計28チームの他、JFL代表、大学代表、高円宮杯優勝チームを加えた80チームで本選を実施。天皇杯は、プロ、アマを問わず、すべての第1種、第2種加盟チームが参加できる、日本最強のチームを決定するトーナメントとして生まれ変わった。

 この効果は抜群だった。参加チームは一気に6,000チームを超えたばかりか、その後も増えつづけ、昨年度の大会では6,611チームにまでのぼった。また、各都道府県予選を勝ち抜いて本選に進んでくる高校生チームも現れ、また、各地のクラブチームも本選に出場してくるようになってきた。そして、これだけの参加チームで各都道府県代表を決定するため、本選のかなり前から予選が始められており、地方大会から数えると、まさしく1年間をかけて争うビッグイベントに成長している。

 Jリーグの発足以降、プロとアマの実力差は拡大傾向にあり、アマチュアチームがJリーグの強豪を破るということは難しくなってきているが、それでも、全国の舞台でプロのチームと対戦するのは、アマチュアプレーヤーにとっては最高のプレゼント。しかも、芝のグラウンドでサッカーをする機会の少ない一般のプレーヤーたちにとっては、Jリーグの舞台となるグラウンドでプレーすることは、何物にも代えがたい喜びになっている。



 さて、我が福岡県代表として本選に臨むのは、福岡県サッカー選手権で3連覇を飾った福岡大学。決勝戦では、同じく九州大学リーグ1部の九州産業大学を2−0で下して、3年連続21回目の本選出場権を獲得した。ユニヴァ代表の、太田恵介(FW)、坪井慶介(DF)、杉山哲(GK)が代表の試合の関係でチームを長く離れていたが、この3人がチームにフィットしてくれば、まだまだその力は上がるはず。実に楽しみなチームだ。1回戦の相手はサガン鳥栖。さてさて、どんな試合を見せてくれるだろうか。

 今年の天皇杯は11月25日を皮切りに、各地で試合が繰り広げられる。FIFAワールドカップTMで使用されるスタジアムでの開催も予定されており、いつもの天皇杯に加えて、また新しい楽しみもある。今年も九州地区の試合を中心に観戦して、チームとともに北上し、元旦は国立競技場で迎える予定だ。その国立競技場で九州のチームを応援することが出来たら、これ以上の幸せはない。



※このレポートは「online magazine yahoo 2002CLUB」、ならびに「online magazine ISIZE 2002CLUB」に掲載されたものです。
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