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 福岡通信 01/11/02 (金) <前へ次へindexへ>

 歴史を紐解く楽しさ


 文/中倉一志
 私事で恐縮だが、10月から個人のHPを開設した(office2002〜the history of japan soccer)。内容は日本のサッカーの歴史を振り返ろうというもの。我ながら、なんとも大胆なことを始めたものだ。そもそも、私がサッカーを見始めたのは小学校6年生の時。日本がメキシコ五輪で銅メダルを獲得した年だった。そんな、たかだか30数年しかサッカーと付き合っていない私が日本におけるサッカーの伝播と普及を振り返ろうというのだから乱暴以外の何物でもない。

 元々は編集長を拝み倒して2002clubに連載させてもらおうという気がなかったわけでもないが、あまりにも大それた試みに、さすがにお願いするのを止めた。日本にサッカーがやってきたのは1873年9月のこと。調べようにもあまりにも昔のこと過ぎる。あちこちで関連文献を探しては、つぎはぎだらけの記録をつなぎ合わせて当時の様子を探り当てているわけだが、この程度のレポートをプロの仕事として紹介するわけには行かず、一個人の趣味としてHPを立ち上げることにした。

 きっかけとなったのは、日本のサッカーの歴史を記したものがなかったこと。時系列的に記したものには、日本蹴球協会50年史である「日本サッカーのあゆみ」(日本蹴球協会編 講談社 1974)と「日本サッカー協会75年史」(日本サッカー協会 ベースボールマガジン社 1996)があるが、前者は絶版となっており入手は難しく、また後者についても広く世間一般に普及しているとは言いがたく、128年にわたる歴史を振り返っているため、一つ一つの事例については、それほど詳細に書かれてはいない。

 唯一現存しているのは、我々の大先輩で、最年長のサッカージャーナリストとして著名な賀川浩氏が(FC JAPAN)とサッカーマガジンで、日本の歴史について連載をされていらっしやるものだけだと記憶している。しかし、調べ始めてみると誰もやらないのが良く分かる。とにかく大変だ。これを仕事にできるのは、やはり賀川浩氏くらいのものだ。けれども、それなりに楽しい。学生時代に戻った気分で様々な文献を紐解いている。



 調べていて興味深いのは、サッカーというスポーツが、本当にその国の文化や気質といったものに密着しているということだ。現在の日本のサッカーは、ショートパスをつないで組織的に相手を崩し、守備においても前線からの組織で守るということで知らされているが、この傾向は既に1920年代の始めに出来上がっている。1927年に日本が国際大会でフィリピン相手に初勝利を挙げた時も、1930年の極東大会で優勝を飾った時も、日本はショートパスをつないだ組織的なサッカーで、パワーとスピードに対抗していた。

 そして1954年、韓国との初対戦となったスイスW杯予選では、スピードとパワーにものを言わせてキック&ラッシュで攻め込んでくる韓国に対し、日本はショートパスをつなぐ組織的なサッカーで対抗したとの記録が残っている。サッカーの技術や戦術の発展により、当時のサッカーとは比べ物にならないほど両国のサッカーは発展を遂げているが、スピードとパワーの韓国と、組織的なサッカーをする日本という図式は今も変わらない。

 そう言えば、99年に日本で行なわれた「第2回日韓国会議員サッカー大会 日本議員連盟vs.韓国議員連盟」でも同じような光景を目にしたものだ。日本は1点を先制し、なおも組織的な攻撃で幾度となく決定機を作り出したが決定力に欠いて追加点が奪えない。そのうち日本の動きが鈍ってくると、韓国がスピードとパワーで圧倒。最後は韓国が逆転勝利を挙げた。代表の試合の負けパターンと、議員連盟の負けパターンは実に酷似していた。

 ちなみに、日本代表が五輪優勝候補のスウェーデンに逆転勝ちした、いわゆる「ベルリンの奇跡」を起した日本代表の総括記事を掲載した当時の東京報知新聞の見出しは、「技術は世界一流だが、惜しや体力が伴わぬ」というもの。これは、「日本の選手は技術は世界中で通用するが、体力では遅れを取っている」というトルシエ監督の日本代表チームの分析とも一致する。いいか悪いかではなく、国の根幹は変わらないものだなあと妙に感心させられる。



 もうひとつの注目点を上げるとすれば、それは、日本のサッカー界の発展に多くの外国人が関与してくれているということ。そして、時代が変わっても彼らが日本に残した教訓には共通点があるということだ。1920年代に日本中を回って指導を行ったビルマ人の留学生チョー・ディンは、正確性がなければ役に立たないことを強調し、そのためにはサイドキックを多用することと、繰り返し反復練習することの大切さを説いたと言われている。

 また、日本サッカーの恩師と言われているデッドマール・クラマー氏も、「ボールコントロールは次の部屋に入る鍵だ。この鍵さえあれば、サッカーというゲームは何でも出来る」として、あらゆる状況のもとでボールを扱える正確な技術が全ての基本であるという考えを選手たちに徹底させた。来る日も、来る日も繰り返される基本練習。しかし、それは東京五輪のベスト8、メキシコ五輪での銅メダル獲得という最高の結果になって現れた。

 そして日本人ならば誰でも知っているであろうジーコもまた、基本の大切さを日本の選手たちに徹底して教えた。一見、派手に見えるスーパープレーも実は基本の積み重ね。ボールを正確に味方にパスすることの大切さを繰り返し説いた。無駄なドリブルや、不要にボールを持つことを戒め、パワーよりも正確性を求めた。「シュートはゴールへのパス」という言葉はあまりにも有名だ。

 さらに、日本に初めて「戦術」という言葉を浸透させたオフト元監督。彼が残してくれたものは、戦う上での「基本」だった。当時マスコミは「オフトマジック」という言葉で、その手腕を評した。しかし、オフト元監督のもとでキャプテンを務めた柱谷は次のように語っている。「オフトが植え付けたのはサッカーの基本。世界に通じる基本中の基本なんです。オフトは、これを徹底して選手に身につけさせた。これが出来て初めて次のステップに進むことができる」。全ては基本にある、このことを多くの外国人が教えてくれた。



 また、様々な文献に登場する選手やスタッフの名前も嬉しいものだ。みんな、私が憧れた選手たちだ。その殆どはメキシコ五輪前後の代表選手たち。ロングスローの小城。中盤に君臨していた森孝慈。動物園のヒョウの動きを見て俊敏性を養ったという横山謙三(当時の少年雑誌にそう紹介されていた)。世界の釜本。その彼にパスを供給すべく右サイドを駆け上がる宮本輝紀と左サイドを突破する「黄金の足」杉山。こうした名前を見るだけで少年に戻った気がするから不思議なものだ。

 そして、1954年に日本のW杯予選史上初ゴールを挙げて以来、日本サッカー界低迷の時期を支えてきた長沼名誉会長と、その名誉会長を補佐し続けてきた岡野会長。「腐ったみかん事件」で、サッカー界に君臨する長老という悪いイメージが定着してしまった2人だが、歴史を紐解くと、この2人の苦労と献身的な働きが窺い知れて興味深い。日本にプロが出来た時、多くの人たちが喜びの言葉を口にしたが、この2人ほど喜んだ人たちはいないだろう。

 そんな日本も、90年代初めの育成プログラムと、Jリーグの開幕によって急激に発展を遂げた。突然変異が起きたかのように代表の力は向上し、韓国どころか、アジアの国に殆ど勝てなかった日本は、一躍アジアのトップチームに君臨するようになった。しかし、これは128年間の歴史の積み重ねによるもの。多くの人たちが支えてきた結果に他ならない。そう思いながら文献に目を通すと、また違った感慨がこみ上げてくる。

 とうとう、あと7ヶ月で日本と韓国がFIFAワールドカップTMを共催する。出場することさえ夢だったワールドカップが日本の地で開かれる。これを機に、日本サッカーの歴史は新たな道を歩み始める。先人たちが支え、築いたきた歴史がさらに大きく発展することになる。トルシエ監督流に言えば、そのスタートは7日に行われるイタリア戦。はてさて、日本はどこへ向かうのか。目を凝らしながらしっかりと見つめたいと思う。



※このレポートは「online magazine yahoo 2002CLUB」、ならびに「online magazine ISIZE 2002CLUB」に掲載されたものです。
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