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 福岡通信 02/03/02 (土) <前へ次へindexへ>

 10年目のキックオフ


 文/中倉一志
「開会宣言。スポーツを愛する多くのファンの皆様に支えられまして、Jリーグは今日ここに、大きな夢の実現に向かって、その第一歩を踏み出します。1993年5月15日、Jリーグの開会を宣言します」。川淵チェアマンの開会宣言によってJリーグは幕を開けた。歴史の第一歩を記す会場となったのは国立霞ヶ丘競技場。30万6,269通の応募の中から抽選で選ばれた59,626人の観衆がスタンドを埋め、チアフォーンが神宮の森に響き渡った。

 午後7時30分、選手が、観衆が、そしてサッカーに関わる全ての人が待ち望んだキックオフのホイッスルが鳴る。対戦カードはヴェルディ川崎(現、東京ヴェルディ1969)vs.横浜マリノス(現、横浜F・マリノス)。日本リーグを引っ張ってきた伝統の一戦だ。華麗な技と、巧みなコンビネーションを見せる両チームのプレーに観衆は魅了され、そして、選手たちは日本リーグ時代以上に闘志を剥き出しにしてボールを追った。国立競技場は新しい時代の息吹に溢れていた。

 両チームともに持てる全てを発揮して戦っていた。試合は一進一退、緊迫した空気がピッチを包み込む。そして17分、川崎のヘニー・マイヤーが、ペナルティエリア左角付近で右足を一閃。次の瞬間、見事な弾道を描いたボールがゴールネットを揺さぶった。記念すべきJリーグ第1号ゴールが誕生した瞬間だった。しかし、横浜も後へはひかない。48分、木村和司からボールを受けたエバートンが、マイヤーとほぼ同じ位置からのミドルシュートを川崎ゴールに突き刺したのだ。

 そして決勝ゴールは横浜のディアス。59分、中央突破からの水沼のシュートは一度はGKに弾き返されたが、ボールは抜群のポジションで待ち構えていたディアスの前に。このボールを、ディアスが「伝家の宝刀」、左足アウトサイドで流し込んだ。2−1。Jリーグ史上、初の勝利は横浜マリノスが手中に収めた。その後、数え切れないほどの名勝負を歴史に刻んできたJリーグ。そのJリーグが明日、いよいよ10年目の開幕を迎える。



 空前のJリーグブームが巻き起こった1993年。スタジアムはいつも超満員。観戦チケットはプラチナチケットと化し、どのチームも発売と同時に完売するのが当たり前だった。前年までの日本リーグでは、常に閑古鳥が鳴いていたスタンドとは別世界がそこにはあった。Jリーググッズは飛ぶように売れ、スタンドでは顔にペインティングを施すのがブームにもなった。だが、ブームは長くは続かない。1995年から平均入場者数は下降の一途を辿ることになる。

 それに追い討ちをかけるように、Jリーグの将来を悲観する記事がメディアで流れるようになり、各クラブの経営難を指摘する記事も増えた。それとともに、Jリーグ開幕戦で記者席に座れないほど集まった報道陣の数も減少した。しかし、ブームに乗ったファンや、一部のメディアはスタジアムを去ったが、サッカーを愛する人たちはスタジアムに足を運び続け、スポーツを愛するメディアは情報を発信し続けた。そして、「地域密着」という理念は、少しずつ、しかし確実に浸透していった。

 このことを証明して見せたのがJ2の開幕だった。その規模はJ1と比べるまでもなく、どのチームも経営問題で頭を悩ませる日々が続いている。選手の給料はお世辞にも高いとは言えない。しかし、こうしたチームを地元市民が支え始めた。J1と比較すれば技量は落ちる。全国的な有名選手もいない。しかし、「おらが町のチーム」の「おらが町のスター」の活躍を楽しみに地域の人たちは毎試合スタジアムに足を運ぶ。確かに観客数は多くはない。しかし、サッカーを愛する気持ちはビッグクラブのそれと変わらない。

 そして、青々とした芝生というプレゼントをJリーグはくれた。芝は日本では育たない。スポーツは土の上でやるもの。かつては誰もが疑わなかったことだ。1982年にトヨタカップのために来日したジーコは茶色の芝生の上でプレーしたが、それを疑問に思う人などいなかった。それが、いまではスタジアムの芝生は青々としていて当たり前。それどころか、試合をやっていなくても、スタンドにいるだけでワクワクするようなスタジアムが次々と建設されている。



 また、Jリーグ開幕前は、何故かサッカーファンであることをおおっぴらに話すことがなかったオールドファンは、何をおいてもサッカーが一番だと公言するようになり、Jリーグ以降のサッカーファンは、ファン同志のネットワークを広めていくようになった。そしてサポーターは、ただゴール裏で大きな声を挙げるだけでなく、チームを支えることの本当の意味を考え、そのスタイルを少しずつ変えていった。そしてなにより、そんな人たちが主体的にサッカーに、そしてスポーツに関わっていくようになり始めたことが何より大きい。

 まだまだスポーツ文化が根付くには程遠い。「走りながら考えるJリーグ」も、もっともっと改善しなければならないことも多い。しかし、この10年間で多くのものを残してくれたことも確かだ。プロのチームが地域に密着するなどということはJリーグ以前では語られなかったこと。新しいもののように思えた、そして夢のように思えた地域密着という理念も、10年が過ぎた今では、それは描いた夢ではなく、やらなければならない具体的な目標に変わってきている。

 そんな日本に今年はワールドカップがやってくる。自分たちの国で行なわれるワールドカップは、変わりつつある日本のサッカー界、そしてスポーツ界に大きな刺激を与えてくれることだろう。技術や戦術の高さはもちろん、各国からやってくるサポーターとの交流、そして、彼らのサッカーとの関わり方は、我々が知らない何かを見せてくれるはずだ。そんな刺激を受けてJリーグは更に大きく羽ばたくことになるに違いない。そして我々も、そこから何かを理解し、新しいものが見えるようになることだろう。

 気がつかないうちに、あっという間に10年が過ぎたJリーグ。創生期は過ぎ、これからは第2段階である発展期に向けて歩んでいくことになる。そして、学校スポーツを巡る環境が厳しくなっていることや、地域社会の再構築が求められている現在にあっては、Jリーグが担う役割は益々大きくなっていくに違いない。明日から始まる10年目のシーズンは、Jリーグの新たなスタートとして重要な意味を持つものになるだろう。



 そんな中で、九州の3チームは何を見つけてられるのだろうか。それぞれのチームに、それぞれの事情があり、全てをひとくくりにするわけにはいかないが、どのチームもJリーグの原点に立ち返って活動をしていかなければいけないことでは一致している。目先のことだけを見つめていては地域密着など出来はしない。そして、スタジアムに足を運んでくれる人とだけ密着しても、それは正しい意味での地域密着ではない。チームがここにホームタウンを置いていることの意味を問い直す時が来ている。

 しかし、それは一朝一夕で出来るものではない。時間もかかれば、産みの苦しみも味わう。しかも、今までやれなかったことを基本に戻ってやり直そうと言うのだから、体制が整うまでには時間が必要だ。だが、プロである以上、ある程度の成果を残さなくてはならない。福岡と大分はJ1昇格を、その第一の目標に挙げているし、昨年はチーム史上最悪とも言えるシーズンを送った鳥栖も、狙っているのはAクラス入り。どれも簡単な目標ではない。

 J2は44試合の長丁場。世界でも類を見ないハードなスケジュールにも悩まされる。そんな中で行なうチーム改革には、相当なエネルギーが必要だ。それを後押しするのがサポーターの暖かい応援であり、時には厳しい目だ。上手くいかないことに対する不満をぶつけるのではなく、チームが変わっていくための支援と叱咤激励が必要とされている。時には黙って後押しし、時には厳しく叱咤する。そして、クラブもそんな思いに支えられて困難にチャレンジする。それが出来た時、九州のチームは大きく飛躍することが出来る。

 いよいよ明日、そして九州のチームにとっては明後日に2002年シーズンが開幕する。いつものように緊張と、喜びと、そして不安が入り混じるシーズンの始まりだ。何が待っているのかは誰にも分からない。しかし、その一つ一つを乗り越えていかなければ何も見つけることは出来ない。一喜一憂せず、楽観的にならず、そして必要以上に悲観的にならずチームを見つめていくことが必要になる。まずはスタジアムに足を運ぼう。そして、チームと一緒に何かを見つけてみたいと思う。



※このレポートは「online magazine yahoo 2002CLUB」、ならびに「online magazine ISIZE 2002CLUB」に掲載されたものです。
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