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 福岡通信 02/08/16 (金) <前へ次へindexへ>

 鹿島アントラーズに思うこと


 文/中倉一志
 激しい戦いだった。

 Jリーグ・ディビジョン1第14節、カシマスタジアムで行われた鹿島アントラーズと横浜Fマリノスの試合は、間違いなくJリーグのベストゲームのひとつに数えられる試合だった。余計な計算などせずに、ただ自分たちの力を真正面からぶつけあう。ともにゴールを目指し、持てる力の限りを尽くして攻め合った。通常、TVでは現場の迫力は半減するものだが、それでも気迫は十分に伝わってきた。スタジアムで観戦した方たちは、さぞかし興奮したことだろう。

 開始直後にいきなり鹿島が決定的なシーンを作り出したこの試合は、ともにゴール前の攻防が続く目が離せない展開となった。鹿島が攻めれば、すかさず横浜FMが攻め返す。ほんのわずかな隙を見せれば鋭いシュートがゴールを襲う。それを高い集中力で跳ね返す両チームのDF陣。鹿島が先制してリズムを掴めば、横浜FMが追いついて勢いを奪い返す。結局、横浜FMが見せたわずかな油断を見逃さなかった鹿島が2−1で勝利を挙げた。

 試合を分けたのは「魔が差した」としか思えないナザのプレー。不用意に出したドゥトラへの短いパスを本山に奪われて、そのまま決勝ゴールを決められた。しかし、ナザのこのプレーだけを批判するのは可哀想というもの。最終ラインにいた中澤でさえ本山が近づいてきていることを気が付かなかったというのだから、わずかな隙を見逃さなかった本山を誉めるべきなのだろう。それにシュートコースはボールひとつ分しか空いていなかった。

 両チームの差はわずかなものだった。しかし、それでもなお、鹿島の強さを感じたのは私だけではないだろう。豊富な運動量で高い位置からプレッシャーをかけ続け、ボールを奪うとスピードに乗ってゴールを目指す。スペースには次から次へと選手が走りこみ、後方からも積極的に押し上げて攻撃に厚みを加える。それでいて、守備陣に穴は空かない。横浜FMが何度もゴール前に迫っても決定機を与えることは少なかった。いよいよ本領を発揮しだした鹿島が2ndステージの優勝候補であることは間違いない。



 鹿島は過去9シーズンで年間優勝4回、年間2位2回と他を圧倒する成績を残している。特に96年シーズン以降は磐田と鹿島でJリーグ年間タイトルを独占。他の追随を許さない存在としてJリーグに君臨している。その鹿島の強さの秘密は長期的視野に立った補強と育成にある。この日、先発メンバーに名を連ねた9人の日本人選手は全員が代表選手経験者という豪華さだったが、将来を見据えて築き上げてきた結果が、こうしたチームを作り上げた。

 そんな鹿島の姿勢を現しているのが98年の補強だった。元々、多くの新人選手を取らない鹿島だが、この年、鹿島はユース代表候補5人を獲得して世間を驚かせた。獲得したのは、小笠原、本山、中田、中村(祥)、山口の5人。中村を除けば全員がMFだった。一見、贅沢すぎるほどの補強。しかし、当時の中盤を担っていたのはビスマルク、増田、本田、ジョルジーニョの4人。中村のポジションである左SBには日本代表の相馬がいた。彼らの出番はないように思われた。

 ユース代表候補とはいえ、鹿島の中盤に入り込むのは並大抵のことではない。しかも、4人が同じMFのポジションでは、そのハードルはきわめて高く見えた。下手をすれば出番がないままに年月を過ごす可能性も高かった。しかし、鹿島は彼らのスカウティングにあたって、将来のフォーメーションを提示したという。当時、ジョルジーニョが34歳、ビスマルクと本田は28歳、そして増田は24歳だった。4〜5年後の予想フォーメーションに彼らの名前があったのは想像に難くない。

 その後、小笠原、中田、本山は日本代表選手に成長。しかし、それでも先を見据える鹿島の姿勢は変らない。昨年はユース代表候補の青木を、そして今年は大谷を獲得した。さらに高齢化が気になるDFラインには金古、羽田がいる。右SBには99年ワールドユースで活躍した石川を獲得した。ユース時代から育て上げたMF野沢もU−21代表候補入りを果たした。そして、不足しているポジションはブラジル陣を補強する。それでいて選手の数は26人だ(2002/2/10現在)。



 鹿島は強豪でありながら常にチームの問題点と課題を的確に分析し、問題解決のための補強計画を立て、それにしたがって選手を獲得してきた。毎年の獲得数が多くないことから見て、獲得した選手たちを効果的に育成することまで視野に入れているのだろう。そして、獲得した理由を選手たちに明らかにすることで、それぞれの選手に具体的な目標を与えた。当然といえば当然のことだが、それを確実に積み上げてきたところに鹿島の本当の強さがある。

 もちろん、これを実践していくためには、クラブに関わる全ての人たちがクラブの方針について理解し、それを実行するにあたって協力しあい、当事者意識をもって仕事にあたることが不可欠になる。方針の不徹底、育成・補強の失敗があれば、クラブはあっという間に実力を落とす。プロスポーツの世界で闘う選手たちの実力は紙一重。少しの油断で立場が逆転する例は過去に溢れるほどある。クラブの代表者から職員、寮の管理人までもが一つの目標に向かって一丸となる必要がある。

 東京に住んでいた時に、何度か鹿島関係者の話を聞く機会に恵まれたが、そのときに感心させられたのは、どんな時でも、どんな場所でも、そして誰に聞いても、誰もが全く同じことを話すことだった。それは、ジーコが強烈にリーダーシップを発揮して築き上げたものであることは間違いないが、関係者の全てがジーコの教えの下、一丸となってクラブを強くしようという意思を持っていたからに他ならない。それは、選手もサポーターも同様だ。

「チームは家族だ」。ジーコは良くこの言葉を使っていた。Jリーグが始まって10年、鹿島にもいくつもの問題はあったはずだ。勝てない時期もあった。そして、「神様」と呼ばれるジーコでさえ、初年度の1stステージ終了後に「俺が監督だった」との発言をして物議をかもし、天皇杯では「唾はき事件」を起こして世間を騒然とさせた。しかし、そんな時、家族である鹿島関係者たちは真摯に問題に向かい合って解決してきた。全てはひとつになって取り組んできた成果だといえるだろう。



 鹿島は最初から強いチームではなかった。既に知られていることであるが、Jリーグに参入する前は日本リーグの2部チーム。Jリーグの加盟申請に際しては、「99.99%は無理。世界的に知られているスーパースターを連れてきて、屋根付きで15,000人収容できるサッカー専用スタジアムでもあれば別」と、川淵元Jリーグチェアマンに事実上の不合格通知も受けた。しかし、誰もが実現不可能と思われた条件をクリアして地域密着を謳い文句にJリーグに参入した。

 しかし、実力的には誰もが下位だと思っていた。ジーコがいるといっても年齢的な問題があった。しかし、鹿島は勝ち続けた。頼みの綱であったはずのジーコが怪我で欠場を余儀なくされても勝ち続けた。有名選手はいない。華やかなプレーもない。しかし、全員でピッチの上をカバーしあい強豪を倒し続けた。その戦い方は「チームは家族」という名にふさわしいものであったし、最初のステージで優勝をするという強い意志によるものであった。

 そんなクラブにアビスパ福岡もなれないものだろうか。現状をみるだけなら、今すぐ鹿島のようになることは不可能なように思える。しかし、鹿島だって最初は誰も強くなるなどとは思っていなかったのだ。グラウンドは畑の中、ロッカールームさえもなかった。あるのはただジーコだけだった。しかし、鹿島はジーコを中心にひとつになって戦った。ないものを嘆くのではなく、どうやったら得られるかと必死になって一つ一つの問題を解決してきたのだ。しかも短い期間で。

 ジーコだって最初から鹿島にいたわけではない。クラブ関係者がなんとしても成功したいという強い意志がジーコを招いたのだ。当時、ジーコは他の名門クラブからも声がかかっていたという。それでもジーコは鹿島を選んだ。関係者の強い意志が通じたからだ。当時の住友金属に比べればアビスパ福岡の方がはるかに条件はいい。あとは情熱を持ってことに当たるだけでいい。むずかしいことではないはずだ。私たちの街の私たちのクラブ。情熱を持つなど当たり前のことだ。

 いま、ひとつの言葉が蘇る。「フントス・ポデモス(一丸となればやれる)」。2000年シーズンのアビスパ福岡のスローガンだ。その言葉の通り、一丸となったアビスパ福岡が、近い将来、私がかつて愛したクラブを破る日が来ることを願っている。



※このレポートは「online magazine fantasista 2002CLUB」に掲載されたものです。
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