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 福岡通信 02/09/03 (火) <前へ次へindexへ>
アフガニスタンの子供たちに囲まれる現地メンバー

 届けられたワールドカップ-----「お久し振りです」


 文/中倉一志
 待ち合わせの場所に行くと、白いTシャツに半ズボンの2人の青年が元気に挨拶をしてくれた。2002CLUB Afghan Projectの代表を務める藤野良太さん(慶応大学・21)と、副代表の湯川伸矢さん(青山学院・21)。Afghan Projectの報告のために全国の協力者をたずねて回っているという彼らは、福岡に立ち寄ったついでに、わざわざ尋ねてくれたのだという。明るく、さわやかな笑顔と細身の身体は以前と変りはなかったが、どことなく逞しさを身に付けているように見えた。

 彼らと初めて会ったのは今年の3月2日。所用で東京に出向いたついでに彼らのミーティングに出席させてもらったのがきっかけだった。プロジェクトが中々軌道に乗らない。協力を表明した社会人と学生との間のコミュニケーションが取れない。活動資金が確保できない。そんな問題が大きくなり始めそうな微妙な時期のことだった。歌舞伎町にある古びた喫茶店で喧喧諤諤意見をぶつけ合った。「あの時が大きなターニングポイントになった」とは湯川さん。そしてプロジェクトが動き始めた。

 そもそもの始まりは、当サイトの編集長である西村幸祐が書いた「カウントダウン130日とアフガン復興東京会議」というコラムと、フォト・ジャーナリストの長倉洋海氏が撮影した「墓地の前でサッカーをする少年達」という写真だった。「あの写真は僕自身、目にした時に心に響くものがありました」という藤野さんは早速行動を起こし、ほどなくプロジェクト発足メンバーが決まる。目的は、「ワールドカップをアフガニスタンの人たちに届けよう」というものだった。そして、アフガニスタンに街頭TVを設置する活動が始まった。

 当時、アフガニスタンの悲惨な状況は雑誌、TV、写真等、様々なメディアで報じられていたが、言い換えれば、それ以外の情報は皆無といってもよかった。また、学生中心で実行に移すには困難が多すぎるようにも思えた。そんな中、彼らは手探りで情報を集め、わずかなつてを頼りに様々な人たちに協力を求めた。こんな状態で目標が果たせるのか、正直に言って私はそんな思いで一杯だった。しかし、彼らの願いは通じることになる。各方面の様々な方たちの協力を得て、彼らはアフガニスタンにワールドカップを届けたのだ。



多くの人の協力でカブール市内でW杯中継が
実現。
 そんな彼らが最も悩んだのが、援助とは何かということだったという。彼らの活動を支援してくれる人はいたが、その反面、多くの人たちからの批判も受けた。特にAFP通信で彼らの活動が紹介されてからは世界中から批判が寄せられたという。そのほとんどが「なぜ食料や医療ではなくパラボラアンテナなのだ」というものだった。いまでも3ドルの毛布がないために凍死する子供たちがいる現実。「批判は全くの正論だった。凄く悩んだ」と藤野さんは振り返る。

 成功させなくちゃいけないという義務感と、活動に対する批判。いろんな狭間でプロジェクトのメンバーは悩んだ。しかし、彼らは初心に立ち返ることで悩みを振り切り、困難を乗り越えた。「自分たちはサッカーというスポーツを通した援助をしたかった。あの写真の子供たちの笑顔を見たいと思って始めたんです」(藤野さん)。「格好なんてどうでもいい。みんなの笑顔を見るために始めたんです」(湯川さん)。批判は最後まで消えなかった。しかし、支援する人も後を絶たなかった。

 そんな中、彼らは3つのプロジェクトを成功させる。まずは「フレンズボールプロジェクト」。サッカーをプレイする喜びを子供たちに届けるためのもので、日本中から700個余りのボールを寄付してもらい、その一つ一つを自らの手で学校に配って歩き、子供たちと一緒になってボールを追った。2つ目はピースカッププロジェクト。現地チーム8チームによるトーナメント戦で、アフガニスタンの教育省・サッカー協会・オリンピック委員会の協力のもとカブール・オリンピックスタジアムで開催した。

 そして、カブール市役所前広場で念願のワールドカップ放映にこぎつけた。6月21日のイングランドvs.ドイツ戦を皮切りに、8日間に渡って決勝戦までの11試合を放送した。サッカーを楽しんでくれたのは延べ4000人。放送を見たおじいさんは「ワールドカップを観るのはイタリア大会ぶりだよ。ありがとう」と語り、試合を見ながら「前回のワールドカップはな・・・」と隣の人に楽しそうに薀蓄をたれる人もいた。みんなの笑顔は、プロジェクトのメンバーが届けたいと思っていたそのものだった。



8月11日、東京で主力スタッフによる最初の報告会
が開かれた。
 援助とは何か。その答えを見つけることは難しい。アフガニスタンでも批判する人も、喜んでくれる人もいたという。また現在でも、彼らの活動について批判的な人もたくさんいるだろう。しかし、私たちは同じ人間同士、そもそも「誰かのために何かをしてあげよう」などという考え自体、どこかで思い上がっていると言えなくもない。人を本当に助けるなどということは、そう簡単に出来ることではない。その人の境遇や苦しみは、本人以外が全て知るなど出来ないからだ。

 実際のところ、カブールの復興はかなり進んでいて随分と平和だったそうだ。TVも観ることが出来るし、子供たちもよく笑っていたそうだ。しかし、地雷が埋まっていることを示す鉄の棒は、今もすぐそばに立っている。平和そうに見える中でも、学校にいけない子供たちや、TVを見ることが叶わない人たちも大勢いることも事実だった。学校にいけずに働く子供たちが稼ぐ日給は日本円で30円。しかし、サッカーボールは900円前後もする。

 そして、「僕は平和がどういうものなのか知らない」という子供がいる。自分たちにとって当たり前のことが、当たり前ではない人たちがいる。そんな現実に直面して、私たちはどう行動すればいいのか。答えは簡単には出てこない。しかし、プロジェクトのメンバーは、悩み苦しみながら、現地に行って、自ら一緒になって行動することを選んだ。食料や医療品ではなく、自分たちにそのことを気づかせてくれたサッカーを通して出来ることを探したのだ。

 そんな気持ちを藤野さんはプロジェクトのサイトに次のように記している。
「パラボラアンテナを買うお金で物資を送った方がいいのではと思うこともあります。しかし、やはり僕は、僕にアフガニスタンの人々の気持ちを少しでも感じさせてくれた『サッカー』という素晴らしいスポーツを通した援助をしたいと思う。毛布がなくて苦しんでいるアフガニスタンの子供達、またアフガニスタンに限らず世界中で援助を必要としている人達、また僕達が普段忘れがちな日本で援助を必要としている人達のことを頭の片隅に浮かべながら、それでも皆様の力をお借りして、この『2002CLUB・アフガンプロジェクト』をなんとか成し遂げたいと思っています」



全国報告会の旅を続ける湯川さん(左)と、
藤野さん(右)。
 いま、藤野さんと湯川さんの2人は九州を皮切りに、自分たちのプロジェクトに協力してくれた人たちに感謝の気持ちを伝えたいと全国を旅して回っている。この旅を実行に移すことを決めたある出来事を2人は私に話してくれた。ボールや募金を集めているとき、彼らは、その成果ばかりが気になっていた時期があったそうだ。そんな時、クラスメイトが7人しかいないという中学3年生の女の子からプロジェクトの内容を尋ねる電話があった。それから2ヵ月後、その中学生から新品のボールと手紙がプロジェクトに届いた。

 その手紙には、7人の仲間と先生にプロジェクトのことを訴え、皆でボールを買ったのでアフガニスタンに届けて欲しいと記されていた。その時、全国から送られてくるボールや募金には、ひとりひとりの思いが込められていることを知らされたという。「あれがなかったら、自分たちは調子に乗ってしまって、自分たちだけでやったんだと思い上がってしまいかねなかった」。湯川さんは、そう振り返る。

 だからこそ、預かったボールは出来る限り自分たちの手で子供たちに手渡した。そして、「アフガニスタンで見てきたこと、感じたことを1人でも多くの人たちに伝えることで、協力してくれた人たちへの恩返しにしたい」と藤野さんは語る。名簿片手に携帯電話で連絡を取りながらの2人旅は9月下旬まで続く予定だ。最終目的地は北海道の天塩。あの中学生が住む街だ。

 2人が私のためにわざわざ行ってくれた報告会が終わった後、藤野さんは帰り際にこう言った。「僕たちのことはアフガニスタンの人たちは忘れてしまうだろうけれど、ボールはいつまでもアフガニスタンに残る。いつまでもサッカーをして、そしていつかワールドカップの舞台に出てきてくれたら最高だ」。アフガニスタンがいつワールドカップにやってくるのか、それは誰にもわからない。しかし、プロジェクトのメンバーが届けたみんなの気持ちは、いつまでもアフガニスタンの人たちの心に残ることだろう。



※このレポートは「online magazine fantasista 2002CLUB」に掲載されたものです。
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