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 福岡通信 02/12/20 (金) <前へ次へindexへ>

 スポーツが文化たりうるために(4) 〜田主丸カル・スポクラブ
 シンポジウム「もう1つのワールドカップ〜Jリーグ百年構想 ホームタウンづくりへ」

 文/中倉一志
 田主丸(たぬしまる)カル・スポクラブ。カル・スポとはカルチャーとスポーツの略語で、文化複合型の総合地域スポーツクラブを意味する言葉。文部科学省の「総合型地域スポーツクラブ育成モデル事業」を受けて平成13年度に田主丸教育委員会が発足させたもので、拠点型、多世代型、多種目型、受益者負担型、文化複合型、自主運営型を網羅した総合型地域スポーツクラブの設立を目指している。

 設立の目的は、田主丸町の生涯スポーツの振興と平成14年度から実施された学校完全2日制に対応すること。現在は、スポーツ少年団12団体、社会体育団体1団体、文化団体3団体の計16団体が加盟し、総会員数約700名で構成されている。田主丸町体育協会の下部組織として位置付けられ、体育指導やクラブイベントの開催については田主丸町体育指導委員会が担っている。平成15年度までは、文部科学省から交付される助成金を元に運営されるが、それ以降は会員の自主運営へ移行されることになる。

 活動の中心は町の将来を担う子供たち。参加している12団体の内訳は野球3、サッカー6、ミニバスケット1、ジュニアバレー2。スポーツイベントとしては、平成13年9月にミニバスケットボール交流大会(第1回田主丸カル・スポ杯)を皮切りに、既に多くの大会が開催されている。将来的には、慢性的な部員不足に悩む町体育協会の人材確保の手段としても期待され、上部団体に体育協会を置くことによって、同じ環境を子供と大人たちが共有できるよう工夫されている。

 そんな子供たちの成長を見守り、町の財産を温かく育てていく役割を担っているのが社会体育団体と文化団体。社会体育団体はスポーツレクリェーションを目的としたバドミントンが参加。文化団体は「浮羽郡子ども劇場」「浮羽郡手話の会」「和太鼓『牛鬼』」の3団体で、それぞれの活動に公益性を持った団体が参加している。競技種目の壁を越え、年齢の壁を越えたコミュニティ作りとして注目を浴びている。



 この文化複合型の総合地域スポーツクラブ作りに中心として携わったのが隠塚昇氏(田主丸町教育委員会 生涯学習課主任主事)。まだ35歳という若さながら、日本にない新しいコミュニティ作りに奔走した。パネルディスカッションに参加した錚々たるメンバーの中で緊張気味だったが、文化振興に携わっているという点では同じ土俵で活動していることに変りはなく、むしろ新しいものにチャレンジしている苦労と情熱は、他のパネラーに劣るものではない。

 ある日突然、総合地域スポーツクラブ設立の仕事を言い渡されたという隠塚氏。すぐに、それがどんなに大変なことか理解したと語る。21世紀型の新しいクラブとはなにか、カル・スポクラブの設立には何が必要か、構想を練るために1年間を要した。そのとき気づいたのが子どもたちに投資していなかったということだった。既存の組織には手厚い保護が行なわれている反面、肝心なところに金が回っていない。まずは子どもたちに投資する仕組み作りを作ることが必要なことを隠塚氏は痛感する。

 町を育て、町の伝統、文化、経験を継承していくためには子どもたちの育成は欠かせない。かつての日本には、一般生活の中で町の大人たちが我が子に限らず町の子どもを育てる環境があった。しかし、労働時間の長期化、核家族化の進行、女性の社会進出、少子化、受験戦争の激化等々の理由により、子どもたちが生活の中で大人と接触する機会が失われ、やがて縦のつながりばかりか、子どもたちの横のつながりさえ希薄な社会が出来上がった。こんな時代に子どもたちへの投資を怠れば、健全な社会は育つはずがない。

 しかし、競技種目の壁、そして既得権の壁は思いのほか厚かったと振り返る。そんな時、ある少年野球の指導者の励ましに感銘を受けた隠塚氏は、新しいスポーツクラブ作りを何が何でも成功させなければならないと改めて思い直した。そして地道に各競技団体を説得する毎日が続く。ある時は粘り強く、ある時は強引に。その努力は次第に多くの人たちから理解を得られ、平成13年8月5日には「第1回田主丸カル・スポクラブ 子ども劇場夏祭り」の開催。その後も数多くのイベントを開催してきた。



 それでも最初は苦労が多かった。「最初は随分と抵抗もありました。ボランティア精神が根付いておらず、イベントを開催しても文句ばかり。しかし、少しずつ重ねていくことで、地域の住民を巻き込むことが出来た」と隠塚氏は振り返る。どんなことでも新しいものに着手するにはパワーがいる。既存の制度に慣れた人たちにとっては、そのパワーは大きな負荷になるし、新しいことを始めれば不都合ばかりが目に付くもの。緊張のためか多くの言葉を語らない隠塚氏であったが、相当の苦労があったことは容易に察しがつく。

 そして、様々なイベントを通して形が作られた「田主丸カル・スポクラブ」は、平成14年10月下旬に行なわれた設立総会で正式なスポーツクラブとして発足した。クラブの特徴を「主要な大会やイベントを地域住民が自分たちの手でやること。企画・準備から全て自分たちの手でやること」と言う隠塚氏。今後はNPO取得申請を行なう予定になっており、平成15年までに行政が基盤を整備した後は、運営の全て民間の手に委ねることになる。

 「地域住民の手で支えるクラブに育って欲しい」そう語る隠塚氏。実は、ここに日本に文化が根付くキーポイントがあるのではないかと思う。日本における文化、特にスポーツは軍事教練の体育と関連付けられ、体育伝習所(後の東京高等師範→東京教育大学→現筑波大学)を頂点とする日本の巨大な教育システムに組み込まれて日本全国に普及するという世界的には特異な形態を取ったのだが、その過程でスポーツとは与えてもらうものであり、自らが支えるものという概念が薄れていったと思うからだ。

 様々な施設や制度を行政が準備しても、それを自分たちの生活にどのように位置付けるか、自主的に活用するためにどんな取り組みをするかは、利用者である住民が積極的に働きかけていかなければならないのだが、ややもすると、そういった意識が希薄なことも多い。しかし文化とは公のもの、そして地域住民のものだ。それを地域住民が支え、育てていくのは当然のこと。大きな夢が広がる「田主丸カル・スポクラブ」は、そうした意識なくしては成功はない。



 さて、とにもかくにも軌道に乗りつつある「田主丸カル・スポクラブ」。隠塚氏の話の内容はその設立に関することが中心であったが、二宮氏が基調講演で「スポーツを産業として捉えるべき」と語ったことに触れて、野球大会を開催したときのことを話してくれた。野球大会が開催されたのは平成13年11月23日からの3日間。元広島カープの高橋慶彦氏を招いて「第1回田主丸カル・スポ旗、高橋慶彦杯 少年野球交流大会」と題して行なわれた大会には48チームが参加した。

 その際、大会に併せて観光イベントが開催されたのだが、大会終了後、町の観光協会から、かなりの経済効果があったとの報告があったそうだ。経済的な問題が発生すれば、当然のように雇用の問題も付いてくる。「スポーツを産業として捉えるべき」という二宮氏の言葉通り、「スポーツを文化として定着させることは経済的にも、人が集まるという点でも利点がある。地域に支えられたクラブチームの実現というのは十分可能なのではないか」と隠塚氏は感想を述べた。

 学校、企業からのスポーツの独立。老若男女、誰でもがいつでもスポーツに触れることが出来る環境作り。そしてスポーツを文化として捉えること。これらの実現のためには地域住民が支える「総合型地域スポーツクラブ」を育成し、制度として定着させることが、現在の日本にとって必要不可欠であることには間違いはない。それは競技の壁を打ち破り、年齢の壁を破り、日本に新しいコミュニティを生み出すこともまた間違いないことだろう。

 そんな「総合型地域スポーツクラブ」に寄せられる期待は大きいが、ではどのような形で運営するかという現実論になると、まだまだ具体化できないのが現状だろう。地域密着を打ち出しているJリーグのクラブでさえ、具体的な行動といえばサッカー教室を開催するくらいのものだ。そんな中、田主丸町が行なっている壮大な試み。サッカーを愛するものだけでなく、スポーツを愛する人たちにとってその成否に寄せる関心は高い。いつか、「田主丸カル・スポクラブ」が「総合型地域スポーツクラブ」の代表のような存在になることを期待したい。


(この項続く)



※このレポートは「online magazine fantasista 2002CLUB」に掲載されたものです。
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