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 日本サッカーの歴史 03/05/18 (日) <前へ次へindexへ>

 日本におけるサッカーの伝播と普及


 文/中倉一志
 ヨーロッパで生まれ全世界に普及していった近代スポーツ。そのルーツは、貴族階級の余暇から生まれた娯楽や、一般大衆が地域の風習として行っていた行事、はたまた、身の回りのものを工夫して遊んでいた遊戯等に求められる。そうした一部の人たちや、一部の地域社会での娯楽が、やがて各階層、各地に広まっていく中で、民間人を中心にルール調整を行いながら競技ごとに組織化され、それがやがて近代スポーツとして成長していった。

 しかし残念なことに、日本人はスポーツには縁の薄かった国民であったようだ。スポーツとは楽しむ要素が必要であることは言うまでもないが、武士道のストイックな、あるいは道徳的訓練では、楽しむことを罪悪のように考えるか、あるいは児戯として軽んじたため、そういう環境においては、武道と結びついたものだけが発達してきた。唯一の例外といえば「蹴鞠」。スポーツが全くといっていいほどなかった日本に、いまや世界中で愛されているサッカーに似た遊戯があったことは興味深い事実だ。

 さて、そんな日本に明治維新とともに近代スポーツがやって来た。当時の日本は、「富国強兵」を旗印に近代国家の樹立を目指し、「文明開化」の名のもとに積極的に外国文化を取り入れようとする気運が溢れていた頃。欧米留学を終えた帰国者・御雇い外国人らや、西洋式の軍事教練や外国人居留地の外国人との接触により、多くの西洋文明を積極的に取り入れた。そして、そうした文明とともに近代スポーツも日本にやって来た。

 サッカーが日本にやってきたのは1873年、イギリス海軍軍人のアーチフォード・ダグラス少佐と、その33人の部下たちによって紹介されたとされている。東京築地にあった海軍兵学寮の教官だった彼らは、航海術や海軍一般の教養を教える傍ら、余暇を利用してサッカーに興じ、そして、日本人にもサッカーをリクリエーションとして教えた。そこでサッカーに触れた多くの日本人たちは、「フットボールというのはイギリス人のやる蹴鞠だ」と理解していたようだ。



 現在、日本と世界のサッカーを比較する際によく言われるのが「歴史が違う」という言葉だが、実は日本にサッカーが入ってきたのは意外と古い。1873年と言えば、イングランドサッカー協会(The F.A.)が設立されてから僅かに5年後。歴史と伝統を誇るFAカップが第3回目を迎えたばかりの頃だった。当時のサッカーは、イギリスにおいても、まだまだ発展途上のスポーツで、この時点では、現在のような形のサッカーは影も形もなかった。

 ゴールキーパーの手が使える範囲はハーフウェイラインまで。オフサイドは極めて厳重で滅多にパスは出来ず、フォーメーションは、最前線は両翼に2人ずつ、中央に3人というもので、ドリブル中心のサッカーでクロスパスもヘディングもなかった。そんな生まれたての頃に日本にサッカーが伝えられていた。そして、翌1874年には、工学寮(のちの東京大学工学部)のイギリス人講師ライメル・ジーョンズが学生に指導を開始している。

 しかし、残念ながら、日本に最初にサッカーを紹介した軍人たちが帰国すると、サッカーは日本では育たないままになってしまう。当時は長きに渡って続いた武家社会が崩壊し鎖国政策が解け、日本に一大変化が訪れた時期。これほどまでに様々な文化が日本に入ってきたのは日本の歴史上初めてのことといってよく、日本は近代国家を形成すべく必死になって、そうした文化や技術を吸収しようと務めていた。それは、国を一から作り直すような作業だったに違いない。

 そんな状況の中では、軍事訓練には必死になっても、リクレーションに、そして児戯として軽んじていたスポーツに熱中するということは無理だったのだろう。その証拠に、幕末から明治維新にかけて、多くの日本人が西洋文化を日本に紹介したが、その中にはスポーツに関するものは皆無であったといっても差し支えがない。かの福沢諭吉でさえ、スポーツについてはまるで無視していたかのように、殆ど触れることはしなかった。



 そうした日本において、スポーツの普及に大きな役割を果たしたのが「体育伝習所」だった。「富国強兵」を推し進める明治政府は、軍事教練として体育を、学校教育においては体操を奨励したが、前述の通り、当時の日本の教育は知育中心であり体育については効果的な普及が出来なかった。また、普及しようにも、その目的・内容・指導方法・施設・指導者等の環境整備が進まず、スポーツ自体が国民生活の中に入っていかなかった。

 その反省にたって、文部省は1878年に学校教育の特別部門として、アメリカからG.A.リーランドを招聘して、体育伝習所を開設すると公布。体育専門の教員を養成することを目指し、翌1979年に25名の学生とともに、神田一ツ橋通りに校舎を設けて授業を開始した。当時の学生には6円の給料が支払われる代わりに、卒業後は政府指定の学校で教鞭に立つことが義務付けられ、また、数少ない指導者を有効に活用するため、2年程度で勤務先を変わったとされている。

 この体育伝習所でリーランドとともに日本の体操の骨組みを作り、体育専門教師の養成に努めた人物が坪井玄道。彼は、フットボールの研究にも非常に力を入れており、日本サッカー界最初の功労者と呼ばれている人物。今も筑波大学図書館には、「坪井」という丸い印鑑が押され、いたるところに書き込みがされている「FOOTBALL」という英国の本が残されており、修繕の後が残るぼろぼろの表紙からは、彼の研究熱心さがしのばれる。



 さて、近代スポーツの研究・普及に努めた体育伝習所は、1885年4月に『戸外遊戯法 一名戸外運動法』(金港堂)を出版し、明治維新以降、日本に伝わった近代スポーツを紹介。その第17項には「フートボール(蹴鞠の一種)」として競技のやり方も紹介されている。そして、この本が出版された1885年までに、卒業生は3府37県へ教師として赴任。他の近代スポーツとともに、サッカーは全国各地へと広がっていった。

 その後体育伝習所は、1886年に東京高等師範学校が高等師範学校に改称して体育専修科を新設した際に高等師範学校に吸収され、体育伝習所が担った役割は高等師範学校が引き継いだ。そして、「日本サッカーの宗家」的な存在となった高等師範学校は、日本サッカーの創成期において重要な役割を果たしていった。さらに高等師範学校は、東京高等師範学校(広島にも高等師範学校が設立されたため)、文理大学、東京教育大学と変遷を重ね、筑波大学となった現在も、スポーツの研究と普及に大きな役割を果たしている。

 このようにして、アーチフォールド・ダグラス少佐と33人の部下たちが日本に紹介したサッカーは、その後10年の歳月を経て、ようやく日本各地に広がっていった。しかし、当時の書物では、まだ「蹴鞠の一種」と紹介するものも多く、また、各学校で行われていたものも「対列フットボール」とか、「円陣フットボール」と呼ばれるもので、正規のゲームとしてプレーをするものはまだいなかったようだ。その後、高等師範を中心に研究が進められ、日本でサッカーらしいサッカーが行われるようになるのは、さらに10年ほどの年月を必要とすることになる。
敬称略
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