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 日本サッカーの歴史 03/05/18 (日) <前へ次へindexへ>

 着々と広がっていくサッカーというスポーツ


 文/中倉一志
 日本においてサッカーらしいサッカーがプレーされるようになったのは、1890年代後半のこと。「対列フットボール」や「円陣フットボール」がどのような変遷をたどったのか、あるいは、初期のルールがどのようなものであったかについての詳細は不明だが、当時の文献を紐解くと、多少のルールの違いはあれ、1890年代の中盤から後半にかけて、各地でサッカーがゲームとしてプレーされだしたことが伺える。

 「東京高等師範学校沿革史」によると、1893年に校長に就任した嘉納治五郎は、柔道を始め各種の運動を奨励し、1896年には生徒を正会員、教師を特別会員とする「運動会」を組織。生徒たちは毎日30分以上の運動をすることになったが(課外活動の開始)、その際設立された8部の中には、柔道部・撃剣および銃槍部・弓技部・器械体操部・ローンテニス部・ベースボール部・自転車部のほか、フットボール部の名前も記録されている。

 また、兵庫県立神戸高校の前身である神戸一中の「校友会誌第2号(1896年秋)」には、「当時、設立間もなき野球会(明治29年6月誕生、会員約50名)の盛んな活動を校友の一部に嫉むものあり、面当てに蹴鞠会とフートボールを始むる者あるに至りき」との記述があり、1896年には課外活動としてサッカー部が設立されていたことが分かる。また、1900年前後には「『高田』という人物が、日曜日ごとに寮生に蹴鞠を教えた」との話が、寄宿舎日記に残されている。

 更に1937年5月27日付の朝日新聞に掲載された記事によれば、大阪中ノ島川口の聖三一神学校(池袋にある聖公会神学校の前身)で1890年前後にフットボールが指導されていたことが確認できる。記事によれば、メンバー構成はフロント3人、ミドル5人、バック3人、ゴールキーパー1人の計12名。ボールはサッカーのものを利用していたが、宙に飛んできたボールは手でキャッチすることが出来、そのまま持って走りゴールに投げ込んだらしい。試合はいずれかのサイドがゴールを決めたら決定した。どちらかというとラグビーに近いものだったようだ。



 そんな日本のサッカーが、いよいよ本格的な普及を始めるのは1902年、東京高等師範で指導にあたっていた坪井玄道が欧米視察から帰日したことがきっかけになった。坪井玄道は、帰日後、校友会のフットボール部の部長に就任。それに伴い、東京高等師範では彼の持ち帰った書物を元にフットボールの研究が進み、10月に行われた東京高等師範の大運動会で、モデルゲームのひとつとしてフットボールが披露された。この時披露されたのは、6人1組でのゲームだった。

 当時の高等師範学校の運動会は、各種スポーツの競技の内容の紹介や、スポーツイベントの運営方法等の模範として行われるという意味合いが強く、他校からも、多くの人たちが勉強のために集まってきていた。そのため、宣伝効果は抜群。坪井玄道の欧米視察中は、サッカーに対する十分な知識を持ち合わせている中心人物がいなかったことも手伝って、サッカーは全国の師範学校を中心に大きく広がっていったのであった。

 当時の様子を記す資料として、「日本サッカーのあゆみ」(日本蹴球協会編 講談社)では、茨城師範を卒業した助川という先生から聞いた話とされている、茨城県協会からの報告を次のように紹介している。

 「正式な記録はもとの水戸城の天守閣の中に保存されてあったのだが、焼夷弾攻撃で全部焼けてしまった。ただ、自分の記憶をたどって話すならば、茨城師範には1902年に生徒にボールを蹴らせてクラスマッチを盛んにやらせた岡部という先生がいた。九州の出身で高等師範で地理・歴史を専攻された人だ。高師在学中にやった経験上、たいへんおもしろいゲームだからといって教えてくれたのだ。先生が1909年に水街道中学へ転勤される時、水街道に言っても生徒にやらせるから、師範と対抗試合をやろうと約束された。水街道1高がその後身で、茨城県では蹴球歴の古い学校です」

 さらに、1902年1月に締結された日英同盟の影響も忘れることは出来ない。この同盟締結によって、イギリスから多くの教師が来日。彼らは、都会だけではなく地方の学校にまで赴任し英語を教えるようになったのだ。そうした教師たちが英会話のほかにもサッカーを子供たちに教えた。当時、サッカーのことは右も左も分からない日本人がサッカーを学ぶ上において大きな役割を果たしてくれたのである。



 そして1903年10月4日、東京高等師範学校フットボール部が、日本初の本格的指導書である「アッソシエーション・フットボール」を発刊。これは、外国の書物を直訳したものであったが、その後、東京高等師範学校は、自分たちの体験を消化して、更に具体的な指導書として「Foot Ball」(1908.6.23 大日本図書会社)、「フットボール」(1920.11.23 ミカド商会)を出版。技術面での指導においても本格化するようになっていった。

 また、この頃までは、フートボール、蹴鞠と表現されることが多かったサッカーだが、こちらの方も、この時期を境に次第にフットボール、蹴球という呼び名が定着したようだ。1905年に発行された東京高等師範関係の「教育」という雑誌では、「蹴球部」「蹴鞠部」と、その使い方が混用されているが、上述の「アッソシエーション・フットボール」を始め、東京高等師範学校が発刊した指導書では、「フットボール」が使用されており、坪井玄道の帰日を機に「フットボール」「蹴球」という言葉に統一されていったようだ。

 なぜ「蹴球」という漢字が当てられたかについては、協会機関誌「サッカー」56号の「日本のサッカーに貢献した在日外人の紹介−その1−」の中で新田純興氏が次のように記している。

 「・・・日本の歴史の中には『蹴鞠』というものがえいえいと生きていた。しかも、大衆の側からは、いつも強い憧れの的であったということが、幕末から明治にかけて活動していた人々の頭にもハッキリ残っていたから、すぐに蹴鞠だと受け取られたのであって、漢字を使っている国、例えば中国ではフットボールという文字から、これを「足球」と翻訳したものとは事情を異にしているものだと思う。日本には久しきにわたる深き伝統、文化的伝統があったため、文字からの翻訳ではなく見た目から、これを『蹴鞠』と受け取ったのである。それが後に『鞠』の字を『球』に変えて『蹴球』となって昭和に及んだのである」

 ちなみに「サッカー」という言葉を最初に使ったのは大阪サッカー倶楽部。1918年に神田清雄氏(元関西協会副会長)が、明星OBチームの名前に使用したのが最初とされている。当時は「HOW TO PLAY SOCCER」という指導書が出版されていたのだが、これがアソシエーション・フットボールのことだとは分かったものの発音がわからない。そこで、アメリカから帰国した速見藤助教授(同志社大)から「サッカーと発音するのが正しい」と教えられてチーム名につけたそうだ。



 さて、日本のサッカーが本格的に全国へ普及していくきっかけを作った東京高等師範学校。その後も、日本におけるサッカーの普及と強化の中心として活動し、「日本のサッカーの宗家」としての役割を確固たるものにしていく。その恵まれた環境を、1904年9月に金沢の第四高等師範学校から東京高等師範に転勤してきたスコットランド生まれのイギリス人、デ・ハビラントは、「余本校に来り、初めて日本における理想的フットボールを見た」と発言したとされている。

 そんな東京高等師範学校のサッカーにかける情熱は、ますます熱くなることはあっても、決して衰えることはなかった。そしてとうとう、日本で初めての外国人との対戦にこぎつける。時は1904年2月6日。相手は横浜外国人クラブだった。

敬称略
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