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日本サッカーの歴史 03/06/01 (日) | <前へ|次へ|indexへ> |
対抗戦の始まり 文/中倉一志 |
1900年代初期の段階では、日本のサッカーは東京高等師範学校を中心にプレーされていた。そして、その成果は1909年に横浜外国人クラブとの試合に3連勝するという成果をもたらしたのだが、日本人同士の正式な試合ということになると、この時期は、まだ殆ど行われていなかった。試合といえば、東京高等師範の内輪で練習試合をするか、横浜外国人クラブや、外国人子弟が通う学校との練習試合をする程度。一般の人たちがサッカーをプレーする機会は、まだまだ少なかった。
そんな状況の中で、東京高等師範は自らサッカーを研究する傍ら、普及活動にも随分と力を入れており、各地の師範学校へ出向いては積極的にサッカーの指導を行っている。また、各地の師範学校もこれを受け入れ、しばしば、東京高等師範へサッカーの指導を依頼した。さらに、東京高等師範学校の卒業生たちが、各地の師範学校や中学校に教師として赴任することによって、サッカーを通した交流が行われるようになっていったようだ。
こうした状況の変化が、内輪の練習試合に終始していた状況を少しずつ変えていった。そして、それまで行われていた試合から「練習」という文字が取れて、やがて対抗戦へと発展していくことになる。そのきっかけとなったのが、1907年に青山師範学校と東京高等師範との間で行われた練習試合。1906年6月に、東京高等師範に正式に依頼を出し、東京高等師範の部員を招いて指導を受けていた青山師範は、1年間の指導を受けた後、腕試しのために東京高等師範にやってきたのだ。
1907年6月1日、3チーム分のメンバーを揃えて東京高等師範にやって来た青山師範は、東京高等師範との間で40分×3本という変則ゲームを実施。結果は4−1で高等師範が勝っている。当時は正規の時間内で勝敗をつけるというのではなく、練習の目的や参加する選手たちの人数に合わせて、試合形式でトレーニングを実施するという意味合いで試合が行われていたようで、いわゆる「ミニゲーム」や、紅白戦のようなものだったようだ。
さて、1907年11月16日、再び東京高等師範に出向いた青山師範は、今度は前後半90分で決着をつける正規のゲームを実施した。これが、日本における日本人同士での最初の対抗戦として記されている。試合結果は、東京高等師範の指導のもとで腕を磨いてきた青山師範だったが前半を終えて0−4。後半も次々に得点を奪われ、結局1−8で敗れた。完封試合とはいかなかったが、東京高等師範が先輩の力を見せつけた形になった。
また、同年11月24日にも東京高等師範は慈恵医学専門学校(現、東京慈恵会医科大学)を招いて90分間の正規のゲームを行い1−0で慈恵医学専門学校に勝っている。さらに、同12月1日に校内大会を開催した東京師範は、その大会に青山師範と慈恵医学専門学校を招待。その第3試合で両校が対戦した。結果は慈恵医学専門学校が1−0で勝利を治めた。結果的には、約1ヶ月の間に3校でリーグ戦を行ったことになるのだが、当時は、そういった意識はなかったようだ。
この後、こうした対抗戦が盛んになり、やがては各地区大会に発展。その後、全国大会の開催へとつながっていくのだが、その中心はやはり高等師範・師範学校であった。そんな中、突然のように日本サッカー創生期に記録されている慈恵医学専門学校とは、どんな学校だったのであろうか。
慈恵医学専門学校の前身は、明治14年に高木兼寛によって創設された成医会講習所。その後、慈恵医学専門学校、東京慈恵会医院専門学校、東京慈恵会医科大学と発展し、現在にいたっている日本で最古の私立医学学校である。創設者である高木兼寛は、英国のセント・トーマス医院医学校で学び、その英国医学を日本で役立てるために、この医学校を設立したのだが、新しいものを学び普及しようという精神は高等師範学校のそれと共通することが多かったのだろう。
慈恵医学専門学校と東京高等師範の最初の関わりは1906年12月9日。当時の記録によれば、高等師範の蹴球部校内大会に慈恵医学校の学生がやってきて、25分ゲームをやったのが最初とされている。その関係から、高等師範学校との対抗戦が始まったものと推測される。また校内でのゲームも盛んだったようで、1907年10月17日に日比谷公園で行われた校内陸上運動会では、1・2・3年生による混合チームで50分間の紅白ゲームが行われている。
また、高等師範との間の日本で最初の対抗戦を行った翌年の1908年にも、慈恵医学校は5月と12月の2度にわたって高等師範を訪れ、再び対抗戦を行った。結果は、1−2、0−4というスコアで東京高等師範に敗れている。
しかし、残念ながらサッカーにおける両校の交流は短く、1909年11月20日に、東京高等師範の蹴球部の校内大会において、青山師範と連合チームを組み、高等師範の農業専修科との間で試合を行ったのを最後に、これといった活動は記録されていない。当時の慈恵医学校は、神戸の外国人にサッカーを教えてもらったという友成、口羽という2人が中心のチームだったらしく、この2人が卒業するとともに、その活動は姿を消してしまったようだ。
ところで関西に目を向けると、「ボールを蹴って50年」(神中サッカー部編 1966/4)に、御影師範と神戸一中の初めての対抗戦の様子が記されている。御影師範と神戸一中といえば、創生期の日本サッカー界をリードした学校。御影師範は全国フートボール大会で、第1回大会からの7回連続優勝を含む11回、神戸一中は5回の優勝経験を誇る強豪チームだった。対戦が行なわれたのは1915年。御影師範に蹴球部が出来てから16年目、神戸一中にチームが出来てから3年目のことだった。
当時の神戸では、御影師範と神戸一中でしかサッカーはプレーされていなかったが、その歴史の違いから実力の差が大きく、当初はともに、神戸在住の外国人クラブ(KRAC)との間で試合を行なっていたようだ。このあたりは、東京高等師範の歴史と重なるところがあるが、サッカーというスポーツは、在留外国人たち以外の人たちの間では、殆どプレーされていなかったという事情が大きく影響していたのだろう。試合は経験に勝る御影師範が2−1で勝利したが、当時の様子が下記のように記されている。
「県下で唯一の御影師範と同校の校庭で行ないました。何分同校は一年中アソシエーション(サッカーの意)の練習をしている先輩校の上に、オフサイドもない変則試合で、ゴールイン一点張りの強引な試合振りはちょっと面くらいました。だが、当方のFBの若林君(4年生の柔道選手)が敵手を腰投げにかけようとしたので試合は中絶となり、数多の対手方応援団が伸ばせ殺せと駆け寄り、遂に中止となり、以後一切御影師範との試合は忌避することを申し合わせたほどでした」
いやはや物騒な話ではあるが、当時のサッカーはようやく組織的にプレーされるようになった初期の段階。ユニフォームさえも着古しの制服を利用して作ったぐらいであるから、ルールについては、まだ十分に徹底されていなかったのであろう。しかし、神戸一中ではこれをきっかけに対抗試合がさかんに行なわれるようになり、翌年には、神戸二中との定期戦が始まった他、姫路師範、広島一中、関学高等部などと対抗試合を行なっている。
敬称略
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