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 日本サッカーの歴史 03/06/09 (月) <前へ次へindexへ>

 創生期の日本サッカーを支えた人たち


 文/中倉一志
 サッカーが普及する過程において、日本サッカー界最初の功労者と呼ばれる坪井玄道の研究や、その研究を発展させた高等師範学校の卒業生たちの功績の大きさは語るまでもない。1903年に「アッソシエーション・フットボール」を発行した東京高等師範学校蹴球部は、その後もサッカーの研究を進め、1908年6月23日には「Foot Ball」(大日本図書会)を発行。従来のような外国の書物の直訳ではなく、外国人チームとの対戦を通して得た経験を交えた具体的な指導書としては、日本で最初の書物となった。

 この発行に携わったのは、当時はまだ学生だった新帯国太郎、落合秀保、重藤省一、細木志朗らの4人。エジンバラ大学に留学中の友人から、新帯国太郎が本場で発行されていたアソシエーション・フットボールの本を入手。これをもとに夏休みに合宿を行い、自分たちの経験を加えて従来のものとは全く異なる参考書を作り上げた。草稿に擁した期間は約1ヶ月。その後、何度も修正を加えて発行に至った。その情熱には頭が下がる思いだ。

 また、指導面においても卒業生たちは大きな足跡を残している。1906年に東京高等師範を卒業した堀桑吉は名古屋の愛知第一師範に赴任、同校に蹴球部を組織した。そればかりか、市内の明倫中学や陸軍幼年学校、さらには、岡崎、岐阜の師範学校にまで出向いて指導を行った。そのほかにも、落合秀保が滋賀師範、内野台嶺が豊島師範、そして玉井幸助が御影師範に赴任し各校で優秀なチームを育て上げ、1911年の卒業生である松本寛次は広島に赴任し、サッカー王国広島の基礎を作り上げるに至ったのである。

 さらに高等師範・師範学校のあり方も役に立ったようだ。これらの学校には、本校の構内に付属中学校・付属小学校が併設されており、高等師範・師範学校が行うサッカーを見ていた小学生たちが、早い段階からサッカーに親しんでいたことが、その後の技術の向上に少なからず影響を与えたものと思われる。



 また、こうした表舞台で活躍した人々以外にも、多くの人たちがサッカーの普及に力を注いだ。その活動は高等師範で学んだ人たちとは異なり、軽い気持ちから来るものであったかもしれない。ただサッカーが好きだからプレーしたという程度のことであったかもしれない。そのため、その記録は殆どなく、その活動の詳細を知ることは出来ないが、こうした人たちの活動もまた、日本サッカーの創生期に大きな役割を果たしたことも確かだ。

 いわば、こうした在野の人たちの活動の殆どは1890年代から1900年代の始め頃のもの。この時期は、東京高等師範による文献が発表される前のことであり、ほとんどサッカーに関する情報を手に入れられない時代であったことを考えると、彼らがどれだけサッカーに情熱を持っていたかが窺える。そんな在野の人々の中で最初に登場するのは津川彌久、松井米太郎の2人。大阪の聖三一神学校でポール校長からサッカーを教えられたという2人は、日曜日ごとに空地で在留外国人たちとサッカーに興じたと伝えられている。

 1906年に埼玉師範に着任し、教鞭をとる傍ら生徒と一緒にサッカーをやったという三橋彌。1899年に「フットボール略則」と名づけて15ヶ条の競技規則を約した仙台の第二高等学校の生徒であった江渡幸三郎。そして1903年に『中国世界』10月号にサッカーの紹介記事を書いた佐竹という人物らも、サッカーの普及に尽くした人たちだ。そして、同じく1903年には、日曜日になると神戸一中の寄宿生にサッカーを教えた高田という人物もいた。

 ここで紹介した人たちは、おそらく、在野で活躍していた人たちのほんの一握りに過ぎないだろう。そして、彼らの活動が、その後どのような変遷を経て、サッカーの普及に役立ったかは想像の域を脱することは出来ない。しかし、こうした名もない在野の人たちの活動が、多くの人たちにサッカーの楽しさを教えたであろうことは想像に難くない。



 また、外国人たちからも多くの影響を受けたことを忘れることは出来ない。日本にサッカーを伝えたアーチフォールド・ダグラスと33人の部下たち。初めてサッカーの授業を開始したライメル・ジョーンズ。体育伝習所でサッカーの指導に尽力したG.A.リーランド。そして、東京高等師範で教鞭を取ったデ・ハビラント。それ以外にも、多くの外国人たちが日本のサッカーの創生期に活躍し、サッカーの普及に大きな役割を果たしている。

 特に、明治末期から大正初期にかけての高等師範学校系列以外の外国人たちによる指導と普及は、日本サッカーの発展に拍車をかけた。オックスフォード出身のウィルディン・ハートは、江田島海軍兵学校から名古屋の第八高等学校に赴任。1910年から5年間に渡って生徒たちにサッカーを指導し、同校の蹴球部を作り上げた。また、暁星高校の今日の歴史のもとを築いたのは、フランス人教師のテオドール・グットレーベンだった。

 さらに、後に大日本蹴球協会設立に力を投じた内野台領が豊島師範から東京高等師範に戻った後、豊島師範の指導にあたったのがドレーク。彼は隣接する立教大学の中にあった聖公会神学校の神父をしていた人物で、内野台嶺の後を次いで豊島師範の技術向上に力を注いだ。そして、関西のサッカー名門校である神戸一中の指導に尽力したのは、神戸トーア・ロードにいた薬剤師で英会話教師でもあったC.B.K.アーガイルであった。また、1911年には広島高等師範学校で教師であったブリングルがサッカーの指導にあたっていたという記録も残っている。

 日本のサッカー界は、デットマール・クラマー、オフト、更にはジーコを筆頭にJリーグでプレーした多くの外国人選手たちによって、その節目、節目で様々な外国人たちの力を借りながら発展してきたが、創世記の段階で、多くの外国人たちが指導・普及に当たっていたことも忘れてはならない。

 現在では、日本は1998年に行われたワールドカップ・フランス大会に出場し、2002年6月には韓国と共催のもと、FIFAワールドカップTMを開催するまでに成長した。また、ユース年代では世界のトップクラスに迫るところまでやって来た。この成長の大きな要因は、1993年に開幕したJリーグと、1990年代に整理されたユース育成プログラムにあるのだが、それも、こうした先人たちの情熱と努力の積み重ねがあったからのことだ。



 さて、サッカーに限らず、1890年代以降、日本における近代スポーツは飛躍的な普及を遂げてきたが、1910年代に入ると、その勢いは更に加速されることになる。国際オリンピック委員会(IOC)がIOC委員として嘉納治五郎を推薦し、更にはベルリン五輪への参加も求める等、日本のスポーツ界に世界への扉が開き始めたのだ。そして1911年、日本のスポーツ全体を統括する組織である「大日本体育協会」が設立され、翌1912年に、日本はストックホルム五輪に2人の選手と3人の役員を派遣した。

 当時は、まだ各種の競技団体は設立されておらず、ストックホルム五輪では、代表選手の選考は大日本体育協会が行ったが、その後、各競技の指導者たちが独立。国際オリンピックへの参加を目指す中で、各競技団体が設立されていった。そんな中、様々な事情から、サッカー協会が設立されるまでには、まだ時期を待たなければならなかったが、1913年に行われた第3回極東選手権に参加することで、日本サッカー界は新たな道を歩み始めることになる。
敬称略
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