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 日本サッカーの歴史 03/05/18 (日) <前へ次へindexへ>

 日本フートボール大会から全国高校サッカー選手権への変遷


 文/中倉一志
 大阪毎日新聞社の主催で始まった「日本フートボール選手権」。当時は現在とは随分とルールも違い、サッカーの黎明期らしい数々のエピソードも生んでいる。第1回大会ではオフサイドなしという変則ルールが摘要されていたことは前回のレポートでも紹介したが、そのため、各チームはウイングにヘディング係をおいてゴール前に待機させていた。そして、ヘディング係めがけてロングボールを蹴り、そこへ向かって走り込むという戦術が取られていたようだ。

 また、同点の場合にはCKやGKの数で勝敗を決定するという方式は第8回大会まで摘要。その後、いつの時点でルールが変わったかは定かではないが、延長戦が初めて行なわれたのは第11回大会決勝戦でのことだった。細かなルールも現在とは違うものが多く、スローインはサイドラインと直角に投げ入れなければならず、ゴールキックはフルバックの選手がチョン蹴りでGKに渡し、GKが前の方まで持っていってから蹴ったとの記録も残っている。

 コーナーキックは直接入っても得点とはみなされず、また、コーナーキック、ゴールキックともに審判の笛を待ってからでないと蹴ってはいけなかった。主審は両チームの選手が定位置に着くのを待ってから笛を吹いていたようだ。相手の隙をつくプレーは卑怯だという考えがあったのかもしれない。しかし、このルールの摘要を巡って、第1回大会で神戸一中が退場者を出すというエピソードが生まれた。

 かねてからライバル関係にあった御影師範と神戸一中の準決勝、試合は0−0のまま一進一退を続けていた。ゴールキックを得た神戸一中はGKが大きく前へ蹴りだしたが、審判はまだ笛を吹いておらず、「相手の隙につけこんでボールを蹴った」として注意を行なった。ところが、GKは再びゴールキックの際に急いでボールを蹴ったが、これも笛の前。御影師範にはペナルティキックが与えられ、憤慨したGKは自らグラウンドを去ってしまった。



 神戸一中と言えば、初期の日本サッカー界では御影師範と並んで強豪に数えられていた学校。キック&ラッシュ全盛時にあってショートパスをつなぐ戦術で6回の優勝を飾った他、多くの名選手を排出したことでも知られている。その神戸一中は、第1回大会での退場騒ぎの他にも、大会の初期の段階で様々な物議を醸し出していた。御影師範との対抗戦で相手を腰投げで投げ飛ばしたなどという逸話もあり、少々荒っぽかったのかもしれない。

 第3回大会に出場した神戸一中は、準決勝で御影師範と対戦。前半は1−0のリードで折り返したが、後半に2点を奪った御影師範が逆転。更に御影師範が3点目を決めた時に事件が起こった。この得点をオフサイドであるとして神戸一中が猛抗議。もちろん、審判の判定が覆るはずはないのだが、この判定に不服を訴えた神戸一中は試合続行を拒否。結局、後半の途中で棄権してしまった。

 更に翌年の第4回大会でも神戸一中は試合途中で棄権をする。2月12日に行われた準々決勝の対関学高等部戦。この試合はダブルヘッダーの2試合目に行なわれていたためキックオフ時点で既に薄暗くなっていた。試合は前半を終えて1−0で関学高等部がリード。しかし、後半開始時点では既にボールの判別がつかないくらいに暗くなってしまい、試合は肉弾戦の様相を呈してくる。こうなると、高等部と中学生との間には大きなハンデがついた。試合は2−1で関学高等部がリードしていた。

 たまらず神戸一中は日没再試合を要求し、これを受けた審判は得点をこのままにして、残り25分だけを翌日開催すると提案。しかし、あくまでも90分間の再試合を主張する神戸一中は、前半だけを有効とする旨の主審の再提案も受け入れず、更に、抗議中に無人のゴールに関学高等部がゴールを挙げたことに憤慨してそのまま退場。結局棄権となった。今ではとても考えられないエピソードだが、黎明期ならではの出来事だったのだろう。



 しかし、大会自体は様々なエピソードを繰り返しながらも着々と発展していった。第3回大会(1920年度)では参加校が12校までに増加。2日間の大会日程では消化しきれず、やむなく20分ハーフで試合を実施したが、さすがに反対の声が強く、翌年からは大会期間を1日延長している。また、第8回大会から中学校の部が独立。翌第9回大会(1927年度)からは「全国中等学校蹴球大会」と改称して地区予選を導入し、関西の学校以外の中学も参加する全国規模の大会に成長するとになった。

 関西で始められたという経緯もあって、歴代の優勝チームは神戸の代表校で占められていたが、第10回大会(1927年度)で、当時日本が支配下においていた朝鮮半島から参加した崇実中学が、神戸以外で初優勝を飾り玄海灘を優勝旗が渡った。また、神戸以外の日本国内にある中学が優勝したのは第16回大会(1933年度)。優勝したのは岐阜師範だった。この大会を機に、それまで神戸代表が独占していた優勝旗は全国各地を回るようになる。

 戦時色が強くなって来た1940年代に入ると、第22回大会(1940年度)を最後に大会は中断。1941年〜1942年は明治神宮大会が代わりに開催されている。ちなみに明治神宮大会とは、現在の国民体育大会の前身で1924年に明治神宮競技場の完成に伴って開催されるようになったもの。当時、国民の統制に絶対的な権力を振るった内務省が主催する大会で、どの競技も国内最高レベルであることが求められ、それは旧制中学とて例外ではなかった。

 その後、不幸な戦争のために大会は一時中断を余儀なくされるが、終戦間もない1946年8月に招待大会として再開。翌1947年度には再び全国大会が再開される運びとなった。第27回(1949年度)大会からは、学制改革に伴い「全国高校サッカー選手権大会」に名称変更。その後も参加校は増え続け、第40回大会(1961年度)から全国32地区代表による参加の元開催されるようになり、高校サッカー選手権は最初のピークを迎えたのであった。



 最初の転機が訪れたのは第45回大会(1966年度)。この年からインターハイが開催されることになり、サッカーも参加することになったのだが、文部省の次官通達で高校生の全国大会は国民体育大会を除いて1つしか認められていなかったため、高校サッカー選手権は、そのあおりを受けた。結局、「冬の選手権」は日本蹴球協会が単独で開催する選抜大会に変更せざるを得なくなり、それまで大会を主催していた毎日新聞社が手を引くことになったのだ。

 毎日新聞社が手を引いたことにより財政難となった大会は16チームによるトーナメント戦に規模を縮小。文部省次官通達の手前、予選を行わず、出場校は、夏の総体の1、2位と国体の上位4チームのほか、地域推薦で決定した。しかし、第49回大会(1970年度)から、国体が各都道府県選抜の参加となったため、高体連が主催者に復帰。また、日本テレビが日本蹴球協会と契約してTV放送を開始したことから、高校サッカー選手権は、再び隆盛の時を迎えた。

 翌50回大会(1971年度)には各地区予選が復活し参加チームは24に増加。全国民放38社による予選からの後援も決まった。その後、参加チーム数は、16、24、28と順調に増え続け、第57回大会(1978年度)では32校を数えるまでになった。そして、第55回大会から、それまで大阪で開催されていた大会を首都圏開催へ移行。国立競技場をメイン会場として開催したことにより、高校選手権の注目度は一段と高まることになる。

 さらに、第60回記念大会(1981年度)では、試験的に各都道府県から代表校を選出(東京都のみ2)。翌年は32地区代表制に戻したが、第62回大会(1983年度)からは、各都道府県代表(東京都のみ2)による大会に拡大し、現在に至っている。Jリーグ開幕前は、高校選手権で燃え尽きる選手が多いなどといわれることもあったが、Jリーグ開幕以降、プロへの登竜門として、その注目度は年を追うごとに高まっている。
敬称略
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