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 日本サッカーの歴史 03/08/04 (月) <前へ次へindexへ>

 全日本選手権の変遷1 ア式蹴球全国優勝競技会〜復活第1回全日本選手権大会


 文/中倉一志
 さて、1921年に開始された全日本選手権大会(ア式蹴球全国優勝競技会)。その大会が日本最大・最古のカップ戦に成長するまでの変遷について振り返ってみたいと思う。イングランドから送られた銀杯にちなんで、FA杯と呼ばれていた全日本選手権。最初に発表された「全国優勝競技会規則」によると、大会には地方予選と全国決勝の2つに区分され、全国決勝戦は、各地区予選の優勝者を毎年1回、秋季に東京に集めて行なうとされている。

 地区予選は東部、中部、近畿、西部の4地区。参加資格は、大日本蹴球協会の会員である日本人チームであれば良く、全ての選手に門戸が開放されていた。参加料については無料、出場に際してかかる費用は自弁することになっていた。ただし、全国決勝出場チームに対しては旅費を補助することもあるという規定もあったようだ。地区予選は、第5回から6地区、第7回からは8地区、さらに第10回大会からは10地区と順次拡大されていった。



 そのFA杯に最初の転換期が訪れたのは第4回大会(1924年)だった。この年、日本は明治神宮外苑に明治神宮競技場(現、国立霞ヶ丘競技場)を建築。それに伴い、内務省が明治神宮体育大会を創始したからだ。この大会の目的は「明治天皇の聖徳を憬仰し、国民の心身の鍛練、精神の作興に資す」こと。いわば、大正デモクラシー運動に揺らぐ天皇制の補強を目的とするもので、極めて国家主義的、軍国主義的色彩の強い競技会だった。

 大会設立の趣旨に加え、当時、国民の統制に権力を振るった内務省が主催していたこともあり、明治神宮体育大会は国内最高水準であることが求められた。サッカーに関しても、主管は大日本蹴球協会とされていたものの、国内最高水準の試合を提供する必要に迫られたのも当然の成り行きだった。しかし、当時の大日本蹴球協会には全国規模の大会を年に2つも開催する余裕はなく、それまで単独で行なっていた全日本選手権を神宮体育大会と兼務せざるを得なくなった。

 その後、明治神宮体育大会の運営を巡って内務省と文部省が対立。文部省が明治神宮体育大会への学生の参加を認めないとの見解を示したため、協会加盟チーム全てに門戸を開放していたFA杯を独立させることが決定したが(結果的には、大正天皇崩御のため開催は中止)、結局、明治神宮体育大会への学生の参加が認められたため、第7回大会(1927年)からは、再びFA杯は明治神宮体育大会と兼務して行なわれた。なお、この年より明治神宮体育大会が隔年開催になったため、明治神宮体育大会が開催されない年は、FA杯が単独で開催された。

 この明治神宮体育大会開催年には、明治神宮体育大会とFA杯を兼務させるという取り扱いは、第9回明治神宮大会(1937年)まで続くことになる。この間、日本代表は第8回極東選手権で(1927年)国際大会初勝利を飾り、続く同第9回大会(1930年)では中国と優勝を分け合ったことから、いよいよ世界の舞台へ目を向けるようになっていく。そのため、より強いチームの出現を求め、地域選抜チームの出場も視野に入れて、第11回大会(1931年)からFA杯を「全国地方対抗」と銘打つようになったが、実態はほとんど変わっていない。



 FA杯に次の転機が訪れたのは1935年のこと。蹴球協会の主体性を打ち出そうという気運の高まりと、日本代表の強化の推進を目指す大日本蹴球協会は、この年から、FA杯とは別に「全日本総合選手権大会」を設立した。これは翌年に予定されていたベルリン五輪強化策の一貫でもあった。これにより、日本一を決定する大会は秋の明治神宮大会(全国地方対抗と兼務)と、6月の全日本総合選手権の2つが存在することになるのだが、FA杯は明治神宮優勝チームに授与された。

 新しく設立された全日本総合選手権大会趣意書によれば、広く一般のチームに参加を呼びかけず、強力チームへの参加を積極的に呼びかけたとされている。イングランドのFA杯にならって全ての選手に門戸を開放してきたFA杯であったが、この時期は、その考えが変わってきたことが伺える。その流れからか、第14回大会(1934年)は第10回極東選手権に向けての代表合宿のため、主力選手のいない大会は意味がないとして中止にしている。

 また、1935年から1940年までは、日本一のチームが2チーム存在することになったが、全日本サッカー選手権歴代優勝チームには全日本総合選手権の覇者が記されている。なお、全日本サッカー選手権開催のきっかけとなったFA杯は、第9回明治神宮体育大会(1927年)優勝チームである早稲田WMWに授与されたのを最後に日本サッカー界から姿を消した。軍事国家の色濃くなった日本では、他国からのもらい物をチャンピオンチームに授与するのは耐えがたいとする風潮があったようだ。



 しかし、FA杯は、まだ日本のサッカーが黎明期にあった頃、サッカーの母国イングランドがわざわざ寄贈してくれたカップ。また、イングランドサッカー協会が他国に対してこのようなことをした例はない。このカップの寄贈がきっかけになって大日本蹴球協会が設立され、日本のサッカーが本格的に、その歴史をスタートさせることができたことを考えると言葉もないが、これも、軍事国家として歩んだ不幸な過去の歴史のなせる技だったのだろう。

 その後、しばらくは大日本蹴球協会にて保管されていたFA杯は、太平洋戦争の戦火が激しくなった折に、軍需品が乏しくなった際の銀器供出で軍部に提供されてしまったようだ。「サッカー No.14」(蹴球協会機関誌 1961年)に掲載された座談会の中で、戦後、お役所の中に転がっているよく似たカップを見たことがあると言う人がいたという話が載っているが、もし現存するのであれば、もう一度、我々の前に姿を現して欲しいものだ。

 さて、こうして始まった全日本総合選手権大会も、第5回目(1940年、全日本選手権として通算15回目)を最後に中止をせざるを得なくなった。翌1941年から太平洋戦争がはじまったことによるものだった。そして、1941年には明治神宮大会以外の全ての全国大会が中止させられることとなり、日本は不幸な歴史の真っ只中に身をさらされることになった。



 1945年8月15日、およそ4年間に渡る太平洋戦争が終わり、日本は廃墟の中からの復興を余儀なくされた。日本サッカー協会元会長である長沼健が記した「サッカーに賭けた青春」(1969年 講談社)によれば、当時は校舎も教科書もボールもなく、あるのは空腹だけ。何事も信じられず、全てが虚しい時代だった。無政府状態の広島では、暴力団による血を血で争う縄張り争いが日常茶飯事であり、中学生(旧制)たちもすさんだ生活を強いられていたとされている。

 おそらく、多少の違いはあれど、日本中が同じような状況にあったことは想像に難くない。しかし、そんな中にありながらも、サッカー関係者のサッカーを愛する気持ちは強く、思いのほか早く全日本サッカー選手権は復活した。時は1946年5月5日。東京御殿下グラウンドで関西代表の神経大クラブと東大LBの間で優勝が争われた。戦後の混乱期ということもあって、関東と関西のみで予選が行なわれ、決勝大会は2チームの参加だった

 戦前は、明治神宮大会、全国地方対抗、全日本総合選手権等、様々な思惑から日本一を決定する大会も複雑な様式を呈していたが、この大会は「復活第1回全日本選手権大会」と銘打たれ、ただ純粋に日本サッカー界の復活を記念する大会となった。ただし、翌1948年からは、残存物資がそこをつくと共に、配給食糧の激減、無政府状態による世情の混乱、激しく進むインフレ等の影響で、第2回目は再び中止のやむなきにいたる。本当の意味での復活は、第29回大会(1949年)を待たなければならなかった。
敬称略
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