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 日本サッカーの歴史 03/08/25 (月) <前へ次へindexへ>

 日本サッカーの基盤を作ったチョウ・ディンの教え


 文/中倉一志
 日本のサッカーの歴史を振り返るとき、その転機には必ず外国人指導者たちの活躍があった。「日本サッカーの父」と呼ばれたデットマール・クラマー。日本のサッカーに戦術というエッセンスを盛り込んだハンス・オフト。「プロとは何か」を身をもって実践し、Jリーガーにプロ意識を教えた「神様ジーコ」。これらの指導者から新しい教えを学んだ日本は、そのたびに大きく羽ばたいた。彼らの残した功績は日本のサッカーの歴史に燦然と輝いている。

 そんな指導者たちと同様に、日本サッカー黎明期にも日本にサッカーのなんたるかを教え、日本のサッカーを大きく羽ばたかせた人物がいた。その名は「チョウ・ディン(Kyaw Din)」。東京高等工業学校(現・東京工業大学)のビルマ人留学生というのが彼の肩書きだったが、彼が日本のサッカーにもたらしたものの大きさは、先に挙げた指導者たちの功績に優るとも劣らない。国際試合を行うようになったとは言え、まだ黎明期にあった日本サッカー界に、その基盤となる技術や戦術をもたらしたのがチョウ・ディンだった。

 当時、東京市浅草区蔵前町にあった東京高等工業学校に、1919年頃から外国人聴講生が多数来日するようになっていた。その中のひとりがビルマからやって来たチョウ・ディンだった。サッカーが好きだったチョウ・ディンは、広場を見つけては留学生仲間とともにボールを蹴り、やがて大塚の東京高等師範グラウンドでサッカーの練習をやっているのを聞いて、東京高等師範のグラウンドで中学生相手にサッカーに興じるようになっていった。

 この時期は、第5回極東選手権大会の日本代表チームであった全関東蹴球団が東京高等師範のグラウンドで練習を重ねていた時期でもあり、チョウ・ディンは自然と全関東蹴球団と接触を持つようになったようだ。一留学生という立場とは言え、チョウ・ディンの理論と技術の高さは代表選手にとっても学ぶところが多く、代表選手の1人であった守屋英文は、後に、チョウ・ディンの指導を受けたおかげで、自信をつけて出発したと回想している。これが、チョウ・ディンによる最初の指導であると伝えられている。


 ある時、チョウ・ディンは得意であった走り高跳びの練習をするために、早稲田大学を訪れた。第5回極東選手権大会(1921年・上海)の走り高跳びで優勝した平井武を慕ってやってきたものだった。そのグラウンドに居合わせたのが、早稲田大学に通う鈴木重義(後の日本代表選手、ベルリン五輪では監督を務めた)と、その弟の鈴木義弘。この小さな出会いこそ、チョウ・ディンが日本でサッカーを指導するきっかけとなった出来事だった。

 鈴木重義・義弘と懇意にしていた平井は、次のように言ってチョウ・ディンを2人に紹介した。「ジャンプの練習に来ているビルマ人が、君らのやっていることはいかにも幼稚だ。コーチしてやっても良いと言っている」。有名なサッカー選手でもなく、指導者でもない単なる留学生のチョウ・ディンが堪らず発した言葉からは、当時の日本のサッカーがいかに遅れていたかが窺い知れる。そして、これをきっかけにチョウ・ディンは早高のコーチとして指導を開始した。

 当時の日本のサッカーと言えば、ロングキックを放り込んで走っていくキック&ダッシュが当たり前。攻撃といえばドリブル突破ばかり。技術的にも極めて未熟で、第5回極東選手権では、中国やフィリピンが見せるダイレクトのショートパスの交換や、ヘディングの技術を見て感心するといった程度のものだった。それもそのはずで、当時の知識は外国書の翻訳などを頼りに独学するだけ。誰かに指導を受けるなどということは皆無だった。

 そんな日本に、チョウ・ディンはサッカーの基本というものを理論的に指導。それまで本で読むことしか出来なかった知識を、自分で手ほどきをしながら、さらには、その技術を使った戦術についても指導した。こうした指導を受けた早高はめきめきと実力を上げ、1923年に行われた第1回全国高等学校蹴球大会(旧制)で優勝。さらに翌年の同大会で2連覇を飾る。そして、それがチョウ・ディンの指導によるものと知れ渡ると、各地から指導の依頼がチョウ・ディンに殺到した。

 1923年9月、関東を襲った大震災のため、チョウ・ディンが通う東京高等工業の校舎が全壊。授業再開の見通しが全く立たなくなったことから、この期間を利用してチョウ・ディンは巡回コーチとして全国を回ることになる。その多くは旧制高校だったが、理路整然とした語り口でキッキングを力学的に説明したり、ウイングが狭い角度からシュートを撃つことの非を説明するのに三角法を用いて説明する彼の指導を、生徒たちは分析的・建設的に許容。数年の間に日本サッカーのレベルは飛躍的に向上した。



 山口高校時代にチョウ・ディンのコーチを受けた竹腰重丸(日本代表選手、現役引退後は代表監督を務める)は、彼の指導を次のように述べている。「ペナルティエリアライン付近からのキックで、10回中に6、7回ぐらいは確実にバーにあてる美技や、ヘディングの正確さには目を見はったものであるが、それにもまして大きな収穫であったのは、キックやヘッディングのフォームやタイミングについて、簡単な物理を適用して考えることを教えられ、サッカーは考えることができるスポーツであることを知ったことであった。」(『サッカー』 旺文社 1956年)

 同じく、チョウ・ディンの指導を受けた神戸一中の生徒たちも次のように述べている。

 「いろいろの基礎プレー。インステップキックや、サイドキックの基本、正面のタックル、スライディングタックル、ショートパスの使い方、スルーパスの基本なども教わった。理路整然と説き、また自分で模範を示してくれたから、わずか半日ではあったが、我々は習ったことを理解し、これ以後は熱心に練習した。この成果が大きく、大正14年(1925年)1月の全国大会決勝で御影師範を3−0で倒す初優勝につながった」(北川貞義)

 「ボールを蹴るのに、インステップや、インサイド、アウトサイドといった足の部分による分類や、それを実際の試合で使うかといった理屈は、当時の私たちにはなかった。そうした基本的な技術だけでなく、試合での相手とも駆け引きや、ドリブルの際のフェイントなど、実践面で教わることが多かった。例えば、ゴールが見えたらシュートしろ、などということもあった」(玉井操)

 わずか半日の指導ながら、神戸一中はチョウ・ディンの教えを着実に理解し、その教えに基づいて、この後に続く同校の黄金時代を築き上げた。彼らが展開した独特なショートパス戦法と、相手を切り裂くスルーパスは、全国でも右に出るものはいないと言われるほどの完成度だったと言われている。



 それまで本で読む以外に知ることが出来なかった技術と戦術。それを実践して見せ、更には理論的に説明するチョウ・ディンの指導を、旧制高校の生徒たちは、砂漠に水をまくように吸収していった。その指導を望む者は後を絶たず、チョウ・ディンが1923年8月に出した「How to play association football」(連続写真付の指導書)という本を多数買った学校へは、コーチに来てくれるとの噂が立つほどだった。

 また、神戸一中の半日指導は元々予定外で、本来は御影師範の指導にやって来たチョウ・ディンを卒業生の範多が宝塚歌劇団に招待。その帰りに宝塚グラウンドに誘導し、そこで待たせていた神戸一中チームを指導させたものであった。こうしたエピソードが示す通り、多くの旧制高校が彼の指導を望み、そしてチョウ・ディンも、彼らの要望をできる限り受け入れた。こうして、日本で初めてとも言える本格的な指導が全国で展開されることになったのである。

 このチョウ・ディンによる指導は確実に日本のサッカーを強化していった。日本が国際大会で始めて勝利を挙げたフィリピン戦(第8回極東選手権大会・1927年)では、チョウ・ディンの指導を引き出した鈴木重義が先制ゴールを決め、同じく山口高校時代に教えを受けた竹腰重丸が2点目を決めた。また、この試合では、バックスが相手のペナルティエリア内に攻め込んだとの記録もある。当時としては考えられないことだった。

 チョウ・ディンの教えを受けた旧制高校の生徒たちは、全国高等学校蹴球大会(旧制)でその腕を磨き、そして東西両大学リーグでその成果を開花させていった。そして、それは後輩たちに受け継がれていった。そして1930年、第9回極東選手権大会では、中国の力とスピードのサッカーを、パスをつなぐ組織力で打ち破って初の国際大会優勝を飾ることになるのだが、その試合にはチョー・ディンの孫弟子も多数出場。直接指導を受けた者たちが後輩にショートパス戦法の妙味を教えた結果の勝利だったと言える。
敬称略
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