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 日本サッカーの歴史 03/12/1 (月) <前へ次へindexへ>

 ベルリンの奇跡 その4 優勝候補スウェーデンを破る


 文/中倉一志
 1936年8月1日、第11回オリンピックが開幕した。10万人収容のオリンピックスタジアムは大観衆で満員。その中を約4000人の選手団が入場し、5000人を超す合唱団がオリンピック参加を歌うという盛大な開会式が行われた。サッカーに参加した国は16カ国。現在では各大陸予選を経て本大会出場の16カ国を決定しているが、この年は参加を申し込んだ国が16カ国であったため予選は行なわれず、全ての国が本大会に出場することになっていた。

 そして8月4日、日本は初めて国際五輪のピッチの上に立った。場所はベルリンのヘルタープラッツ・スタジアム。観衆は約6000人を集めた。日本の緒戦の相手はスウェーデン。この大会の優勝候補のひとつに数えられていた強豪で、下馬評ではドイツよりも強いといわれていた。現地での戦前の予想はスウェーデンの圧倒的な有利とするもの。東の果てから初めて世界の舞台に登場した日本の敗戦が予想されたのは極めて当たり前のことだった。

 試合は予想通りスウェーデンの一方的なペースで進んでいく。技術、戦術、そしてフィジカルの強さを前面に出して戦うスウェーデンは、日本の左サイドをたびたび突破しチャンスを作る。対する日本は激しい闘志と豊富な運動量でこれに対抗。そしてGK佐野がスーパーセーブを連発してゴールマウスを守る。しかし迎えた25分、ゴールまで約15メートル、ペナルティエリアのギリギリのところからRIぺルソンが放ったシュートがポストに当たって、そのままゴールネットを揺らした。

 更に37分、LWハルマンからのクロスボールを受けたぺルソンが放った強烈なシュートが再びゴールネットに突き刺さる。日本も加茂健(兄)が惜しいシュートを放つなど、いくつかのチャンスを作ることも出来たのだがゴールはならず、前半はスウェーデンの2点のリードのまま終了した。ハーフタイムに鈴木監督は「今日は皆の調子がとても良い。後半頑張れば、きっと勝てる」と檄を飛ばしたが、この時点で日本の勝利を予想するものはいなかった。



 しかし、後半に入ると試合内容が一変する。まずは49分、LWの加茂正五(弟)からのスルーパスを受けたCF川本がシュートを放って1点を返す。日本の得意なパターンから奪取した1点は、日本を勇気付けるには十分すぎるものだった。風下に立ちながらペースを握る日本。スウェーデンのシュートがわずかに外れるという幸運もあったが、リズムは日本のものだった。次々にチャンスを作り出し、そして62分に左サイドからの加茂正五のクロスを右近が決めて、日本はとうとう同点に追いついた。

 いよいよ勢いに乗る日本。逆転ゴールを目指して更に激しくピッチの上を走り回った。さすがに慌てたのか、スウェーデンも激しく攻撃を仕掛けたが、GK佐野がスーパーセーブを連発。また、豊富な運動量にものを言わせて絶え間なくプレッシャーをかけ続け、決してスウェーデンにペースを握らせなかった。その余りに激しい運動量に、スウェーデンのラジオ放送のアナウンサーは「ヤパーナ、ヤパーナ」(そこにも日本人、ここにも日本人の意)を連呼。もはや流れは日本の手の中にあった。

 そして、遂に日本サッカー界の歴史に残るゴールが生まれる。時間は85分のことだった。最終ラインからのクリアボールを拾った右近が前線にフィード。ただ1人前線に残っていた川本にパスが渡る。川本は右方向にドリブルで進み相手のCHを引き付けると、中央に出来たスペースに走りこんできた松永にラストパスを送った。松永は俊足を生かして、そのままドリブルで独走。GKとの1対1から放ったシュートがGKベルグクイストの股間を抜けてゴールに転がり込んだ。

 2点のビハインドからの大逆転。しかも、その直後には、さらに決定的なシーンまで作り出した。そしてラスト5分、最後の猛攻を仕掛けてきたスウェーデンに対し、ここでも佐野がスーパーセーブを見せてゴールを守る。更に、際どいシュートはゴールマウスを外れ、クロスバーも日本のゴールを守った。終了間際には加茂健が負傷のためピッチの外へ運び出されたが、日本は決してひるまなかった。やがて試合終了を継げるホイッスル。初めて世界の舞台に立った日本が優勝候補を破った瞬間だった。コーチを務めていた竹腰茂丸は「潜水艦が戦闘機に勝ったようなものだ」と言って涙を流した。



 この試合の模様を東京報知新聞は、「日本蹴球軍の快勝に全観衆沸き立つ 警官隊出動して漸く整理」と題して次のように報じている。

「大会4日目の話題を独占した胸のすく日本蹴球軍の快勝 ―― 日本蹴球軍が優勝候補の呼び声が高かった強豪スウェーデン軍を3−2で破ったのは、誰も予想していなかっただけに大きなセンセーションを巻き起こした。慣習約2000、黄と紺のスウェーデン軍、紺と白の日本軍、しかも敵軍に比べて子供のような日本軍が、前半敵軍リードのまま後半に入って猛然と立ち上がった姿に、観衆は呆然となった。たちまち3点を奪って1点のリード、ホイッスルが戦いの終了を告げた瞬間、我が選手はグラウンドの真中でうれし泣きに泣いた。観衆はものにつかれたようにスタンドを飛び降り、「日本、日本」と叫びながら幾重にも幾重にも選手団を取り囲んだ。この興奮は巡査の出動でようやく静まったほどだった」(1936年8月6日付 東京報知新聞)

 また、日本が演じたジャイアントキリングは現地のメディアからも最大級の賛辞を浴びた。彼らがこの結果をどう見たのか、大会広報のひとつである「オリンピア・ツァイトゥング」の記事の一節を引用しておくことにする。

「オリンピックのフットボール・トーナメントが始まったと思ったら、たちまち大番狂わせが起こった。スウェーデンは有力な優勝候補のひとつと考えられていた。スウェーデンが準決勝でドイツと当たるに違いないと思っていたのに、そのスウェーデンが早くも第1回戦で負けてしまったのだ。そのスウェーデンの前に立ちふさがったのは、極東からやって来た日本であった。日本の新聞記者がこれを故国に打電すれば、極東には歓喜の嵐が起こるだろう。ストックホルムの人々は、頭を横に振りながら諦めることだろう。ローマではほっと一息つくかも知れないが、イタリア・チームは本当に安心できるかどうか」

注)日本の2回戦の対戦国はイタリアだった。



 イタリアとの2回戦は3日後の8月4日、同じくベルリンのヘルタープラッツ・スタジアムで行なわれた。しかし、さすがに優勝候補の筆頭に上げられていたイタリアに日本は歯が立たなかった。前半0−2、後半0−6と予想以上の大敗を喫しオリンピックの舞台から去らなければならなかった。スウェーデン戦では闘志を前面に打ち出して、相手が舌を巻くほどの運動量で勝利を手にしたが、2日間の休養だけでは疲労が取れず、日本の持ち味を発揮することが出来ないままの完敗だった。

 そのイタリア戦について、竹腰茂丸は蹴球協会機関紙の「蹴球」(1937/5)に「オリンピックの成果」と題して次のように振り返っている。

「 この試合に驚くべき大差を持って敗退せざるを得なかったのは、全くスウェーデン戦の疲労が抜けていなかったことにある。我が代表が他国より優秀な点を持つとすれば、前にも触れたように鋭い動きを持つこと、並びに90分間に出し得る活動量の多いことくらいであって、技術の巧みさも馬力の強さも水準を抜くものではなく、したがって戦法としても優れているということは出来ない。

 中2日を置いて3日目にあたってはいたが、スウェーデン戦死闘の疲労は1週間や10日では回復し得るものではなく、この日の我が代表の戦い振りには、観る目に痛々しいほど疲労の色があり、疾走力も耐久力も落ち、あらゆる活動において鋭さを欠いて、持ち味を全く喪失してしまっていた。8点差は大に過ぎるが、戦況としては5−1、あるいは6−1程度の差が出ても止むを得ないと思われるほどだった」

 最終的には世界との差を痛感させられた日本。しかし、スウェーデンを破ったという記録は日本サッカー界、そしてスウェーデンにも後々まで語り継がれるほどの快挙だった。そして、このスウェーデンの奇跡には次のような後日談もある。

 1950年の冬、ノーベル科学賞を受賞した湯川秀樹博士がストックホルムで行なわれた授賞式に出席すると、あるスウェーデンの新聞記者が次のように語りかけてきた。「1936年にベルリンで日本チームはスウェーデンチームを負かしましたね。あなたは、その日本から来た方ですから、サッカーはおやりでしょう」。そう言うと、その記者はそっとサッカーボールを差し出した。それを受け取った湯川博士は、にっこりと笑うとポンポンとヘディングをして見せたそうだ。
敬称略
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